犬の声
優太と知り合って以来、あたしははじめて彼の口から皮肉を聞いた。こんな毒舌家の才能を秘めていたなんて、あきれて二の句も継げない。優しい細い目も刺々しい光を放ち、まるで知らない人みたいだ。
あたしの知らない優太。
「優太、どうしちゃったの?今日、嫌なことでもあった?」
「べつにいつも通りだよ。いつも通り大学の病院へ行って、午前中は教授の補佐で患畜の診察、午後は手術。空いている時間に学生の卒論の相談に乗ってやり、明日の授業の実験の用意をして、ほどよく疲れて帰ってきたところだ。
奥さんが浮かれて『子供ガデキタノ、喜ンデ』なんて言い出したのを除けば、全部が平穏無事、いつも通りさ」
と、全然いつも通りではない態度で優太は吐き捨てた。
「嘘だよ。今日の優太、いつもと百八十度違う。いつもはそんな意地悪じゃない。いつもはもっと優しくて」
「これも俺だよ。優しいばかりじゃない。むしろ本当は…!」
「本当は悪い奴」、とでも言いたかったのだろうか。しかし、優太は続きを言えずに終わった。
熱気にかられていたのは優太だけではない。あたしもすっかり頭にきていた。
「優太のバカ!二人の子なのに。せっかくできた子供なのに」
すると、優太はとんでもないことを言い出したのだ。
「俺の子かも怪しいもんだ。おまえ、継介(けいすけ)に会っているだろう。俺と付き合う前に、あいつと付き合っていたからな。本当は影で会っているんじゃないか?」
意外や意外で、あたしは漫画みたいに口をあんぐり開けた。さっきから優太には魂を抜かれてばかりいる。
子供をいらないと言ったのは、継介との仲を疑ってのことだったの?
「継介とは、確かに時々は会っているよ。でも、それは、優太がうちに連れてくるからでしょう。同じ病院にいる後輩の中で一番かわいがっていて、しょっちゅう継介と飲み歩いているのは、どこのどいつよ。継介には、もうすぐ結婚する彼女だっている。あたしも継介のことなんか何とも思っちゃいない。優太、バカじゃないの!?」
「だれの子でもいいんだ!」優太は、あたしの声を遮って怒鳴った。「俺の子供でも関係ない。とにかく子供なんてごめんだ。俺は父親にはなれない。日香、このまま二人幸せでいたいなら、子供はいない方がいいよ。産婦人科でも何でも付き合ってやる。だから…」
そして、夫が妻に言う、最低最悪の台詞が、全世界に放たれたのだ。
「おなかの子供は堕ろせ!」
あたしの中で音という音がいっせいにやんだ。本当に何も聞こえなくなった。
意識がザァと引いていき、あたしはその場にへたり込んだ。
それからのことは、よく憶えていないのだ。
我に返ったときは、閉めそこねたカーテンの暗い部屋、あたし一人が息をしていた。
優太はいなかった。目で探しただけだったが、あたしには分かった。
「いないんだ」と心の中で確認すると、不意に涙があふれた。
突然、豹変した夫。
不在の夫。
新しい命を否定した夫。
あたしは、優太を憎んだ。あたしの根源的な部分を否定され、汚されたように思われて。
あたしの子供を愛してくれないことを恨んだ。それは、そのままあたしへの裏切りだ。
でも、それを信じられない、信じたくない気持ちもまだまだ強い。
子供嫌いな人はいっぱいいるけれど、いざ生まれてしまえばめちゃくちゃかわいがるという例は、いくつもある。
自分の子供を愛せない父親がいるわけがない。
ましてや、あの優しい彼だ。
しかし、楽天的な考えがひらめくとマイナス思考が彗星のように現れて、優太の台詞と冷たい瞳を思い出させる。
涙で世界を失っている中、あたしは、ひたすらおなかをなでた。子供とつながるへその緒に、しがみついていたのだ。
そんな風に三日間過ごした。
白く眩しい車内に揺れている今も、あたしはおなかに手を置かずにいられない。子供を守る使命感よりも、何かのお守りにしている感が強い。これが、しょせんはにわかママの限界なのかもしれない。
でも、この子を手放すつもりはない。絶対、生むの。育てるの。
だから、優太と対決する必要がある。
優太の考えを戒めてやりたかった。あたしとこの子を否定したことを、手をついて謝らせてやる。
そうではないと、この子に明るみの世界を用意してやれないような気がして。父親が発した呪いから、解き放ってやらないと。
父親である優太は、いまや子供の障害物みたいだ。子供がかわいそう。
優太もかわいそう。
本当は、優太を負かしたいとは思っていない。彼に自分の子供ができたことを、喜んでほしい、それだけだ。
『三日前はどうかしていた、本当はうれしかったのに照れてあんなことを言ってしまった、大事に育てよう、良いパパになるよ』――なんて歯が浮く台詞を、いつもの細い優しい目で言ってくれないかな。そうすれば、すべてがもと通りになる。
春の眠気はすっかり醒めていた。あたしは、突如あることに気づき、泣きそうになった。
それは、泣いて暮らした三日間、あたしがショックと怒りで忘れていた気持ち――優太が、恋しい。
優太に会いたくて会いたくてたまらない。
あたしには、おなかの子も優太も、どちらもかけがえのない存在だ。
でも、今はまだ、あたしたちは「家族」ではない。
大学の門が見えてきたところで、懐かしさが胸いっぱいに込み上げた。
大学で獣医として研究を続ける優太と違い、あたしは民間企業に就職した。以来、大学はてんでごぶさただ。そのくせ、優太が大学のことをよく話すので、それほど母校を遠くには思っていなかった。
でも、門をくぐるだけで、今、意外なほどドキドキしている。
学生のときは、わけの分からない憂鬱や将来への不安で、校門から続く銀杏並木の緑を、眩しかったり恨んだりして見上げたものだ。
あたしが所属していた獣医学部は学内でも疎外地にあったので、自転車が使えない雨や雪の日は、ぶつぶつ文句を言いながらはるばる通った。
今、こうして歩いていると、あのころの自分と一緒に並んで歩いているような気分になってくる。
ただ、どんなに歩いても、歩いても、歩いても、目指す場所には必ず優太がいたから、うれしかったのだ。
そして、今も優太は獣医学部棟にいるはずだ。優太は、獣医学部病院科所属の助手として、大学付属の動物病院で働いている。
診療は午前中だけだから、午後の今なら捕まえることができるかもしれない、と期待した通りのどんぴしゃり、校舎の中庭、白衣姿でぼうと佇んでいる彼を見つけた。
背中の白いスクリーンに、三日前の出来事が映写されて、あたしはたじろいだ。
でも、声をかけるまでもなく、優太があたしに気がついた。彼は、あたしが来たことに驚きはしなかった。
獣医学部の男子連中は、実験で帰りが遅くなると、よく大学に泊まり込んでいた。実家のない優太は他に行く宛もないから、絶対大学にいるだろうと、あたしは踏んでいた。そんな風に見透かされていることを、優太も知っていた。
優太は何も言わずにぶらぶら歩いていく。あたしも黙ったまま、彼のとなりを歩いた。