犬の声
「優太さんは、どうして獣医になろうと思ったんですか?」
優太は犬の頭をくしゃくしゃ撫でながら、あたしに振り向いた。
そのころ、あたしたちは獣医学部の学生で、優太はあたしの五年先輩だった。入院中の動物の世話のため、あたしと優太は大学の動物病院に二人でいた。
「獣医志望のわけ…うーん、犬が好きだからなあ」
「確かに優太さんは大の犬好きですよね。犬に何か思い入れがあるんですか?」
「うん。犬には、恩があるんだ」
「雪山で遭難したのを、救助犬に助けてもらったとか」
「ハハ。ないない。でも、言ってもどうせ信じちゃくれないし、絶対笑うから、教えない」
「笑いませんから、教えてくださいよ」
あたしがしつこく尋ねるのに折れて、優太はようやく白状した。
「犬に、『犬嫌い』をなおしてもらったことがあるんだ。
俺、幼稚園の歳まで、犬が大嫌いだった。嫌いとうより怖かったんだ。ほら、犬ってすぐ吠えるし、走ると追いかけてくるだろう?あれが苦手でさ、怖い以外の何ものでもなかったね。
ある日、小さな俺はどこかに行こうとして――行き先はもう憶えていないけれど――、ある家の前を通ろうとした。
すると、熊ほどもあるドーベルマンが、家の敷地から道路にはみ出して座り込んでいたんだ。
はいはい、分かっているよ、そんなでかいドーベルマンはいない。でも、幼かった俺には恐怖心から十倍くらいの大きさに見えた。
俺はすぐさま逃げようとしたが、足が震えて動かない。その犬ときたら、ドーベルマンというだけで十分怖いのに、それまで見た犬の中で『KING of 怖い顔』だったから、俺はすっかり怖じ気づいてしまったんだ。
ドーベルマンは俺に気がつき、視線がばっちり合った。もうだめだ、殺される!と俺は思って、泣き出した。
そのときドーベルマンが吠えていたら、俺は間違いなく漏らしていただろうな。ところが、ドーベルマンは殺し屋のような姿からは想像できない、細く優しい声で言ったんだ。
『大丈夫だよー。怖くないよー。優太くんが来てくれて、うれしいんだよー』
そしてしっぽを盛んに振って、俺が通るのを見送ってくれた。
以来、犬が怖くなくなった。実際、俺が犬を怖れなくなると、犬たちも俺にめちゃくちゃ愛想が良くなった。犬たちは俺と友達になりたがっている――ドーベルマンが言ったことは本当だったんだ。
残念なことに、あれが犬が喋るのを聞いた最初で最後だったけれど、俺はいまだに犬に恩を感じているというわけで…やっぱり信じないか」
優太は患畜の犬を撫で、懐かしそうに微笑んだ。ただでさえ細い目が、線だけになって眉の下で弧を描く。
あたしは、このとき、
「あたし、きっと、この人を好きになる」
と直感したのだ。
そんな何年か前のことを、あたしが思い出したのは、春の日差しが注ぎ込む電車の中だった。
淡い光線で白んだ車内に、一人ぼんやり座っていた。三日前のことばかり考えていたが、思いつめて眠れない夜が続いていたせいで、さすがにうとうとしていると、不意に優太の「犬がしゃべった話」の記憶が浮かんだ。
優太に恋した瞬間だ。優しさと細い目の笑顔は、今も変わらない。
いや、正確には、少し違う。それは、三日前までの優太。今の優太を、あたしは知らない。
結婚し一緒に暮らしてきて、あたしは優太の全部を分かっている気になっていた。あたしは、幸せだったから。
おかげで三日前の彼の変貌は、まさしく悪夢としか言えず、それを現実として受け止めるのに、三日間、あたしは部屋に独りきりで過ごす必要があった。
そして、今、ようやく逃げた夫を追いかける気持ちになれたのだ。
でも、それって反対。普通は、「わたくし、実家に帰らせていただきます」ということになり、妻が家を出ていく。ところが、出ていったのは夫で、妻のあたしはどっしり腰を据え、部屋の中央を陣取っていた。
さらに、夫婦げんかのあとに迎えに行くのは夫の役目のはずなのに、なぜか身重の妻が、家に帰らない夫を迎えに行く最中なんて、つくづく逆だ。
だいたい彼は、この身重の身体が気に入らず、妻に言う、この世で最低最悪の言葉を放った。
悲劇の三日前、夕方までは幸せだったのに――。
『彼との結婚を決めた理由?結婚前に彼を実家に連れていったの。あたしが彼と引き合わせたかったのは、両親ではなく犬だったわ。ほら、男の人の場合、動物と遊んでいる様子で、自分の子供への接し方が分かると言うでしょう。彼がわが家の犬をかわいがることができたら、結婚しようと決めていたの。で、彼はどうだったかって?もちろん、合格よ!――アーノルド・シュワルツネッガー夫人』
といった雑誌の記事をあたしが読んでいたのは、産婦人科の待合室だった。
すでに診療は終わり、会計窓口に呼ばれるのを待つだけだ。
「犬好き=子供好き」というアメリカの判断基準をはじめて知ったし、必ずしも鵜呑みにはしなかったけれど、あながち言えないこともない、とは思った。
だって、うちのだんなさまは、大の犬好きの獣医だ。優太の犬のかわいがりようを見たら、シュワルツネッガーの奥さんも、あのマッチョマンから彼に乗り換えてしまうかもしれない。
『妊娠ですね、おめでとうございます』――医者のさっきの言葉が、あたしの頭の中をぐるぐると回って占領していた。顔がにやけてしまうのを、抑えられない。大事な身体のくせに、小躍りして帰った。
家でもうずうずしてしかたがない。早く優太に伝えたい。世界で一番に優太に教えたい。そのあと実家に電話して、次に友達、それから…も、も、もう世界中にアナウンスしてまわりたい!
でも、やはり優太が一番に知らなくてはだめだ。あたしは優太に知らせたいのとみんなに妊娠をお披露目したいのとで、幸福なジレンマにもがいた。
ああ、優太の喜ぶ顔が見たい。新しい家族ができる喜びを、一緒に分かち合いたい。
あたしは、喜ぶ以外の優太を、想像さえしていなかったのだ。
だから、彼に妊娠を告げたとき、例の目が線になってしまう笑顔が来なかったのは、意外すぎた。
優太は背中を向けた。
「困るよ、俺。子供は、嫌いだ」
はじめ、耳と脳が遠い場所にあるみたいに、彼が言っていることがあたしには理解できなかった。
それを察したのか、優太は再び言った。
「子供は、いらない」
「どうして!?」
「言っただろう、子供は嫌いなんだ」
優太は、あいかわらず背中を向けたきりでいる。
あたしはその背中に嘘が張りついていることを証明したくて、昼間の記事の鵜呑みを、ついそのまま言ってしまった。
「だって、犬は好きでしょう。あんなにかわいがっているじゃない」
「犬を好きだからって、人間の子供も同じだとは限らないよ。それとも、日香(ひかる)は俺が犬好きの優しい男だから一緒になったのか?優しい良い父親になりそうだから、俺を選んだのか?悪いがとんだ見込み違いだ」
「あたしは優太が好きで結婚したんだよ」
「だったら、このまま二人きりでいいじゃないか。何の不足があるんだ。子育てでもしなきゃ、暇でしかたがないか?暇つぶしのネタなら他にいくらでもあるだろうに、それをわざわざ事欠いて」
優太は犬の頭をくしゃくしゃ撫でながら、あたしに振り向いた。
そのころ、あたしたちは獣医学部の学生で、優太はあたしの五年先輩だった。入院中の動物の世話のため、あたしと優太は大学の動物病院に二人でいた。
「獣医志望のわけ…うーん、犬が好きだからなあ」
「確かに優太さんは大の犬好きですよね。犬に何か思い入れがあるんですか?」
「うん。犬には、恩があるんだ」
「雪山で遭難したのを、救助犬に助けてもらったとか」
「ハハ。ないない。でも、言ってもどうせ信じちゃくれないし、絶対笑うから、教えない」
「笑いませんから、教えてくださいよ」
あたしがしつこく尋ねるのに折れて、優太はようやく白状した。
「犬に、『犬嫌い』をなおしてもらったことがあるんだ。
俺、幼稚園の歳まで、犬が大嫌いだった。嫌いとうより怖かったんだ。ほら、犬ってすぐ吠えるし、走ると追いかけてくるだろう?あれが苦手でさ、怖い以外の何ものでもなかったね。
ある日、小さな俺はどこかに行こうとして――行き先はもう憶えていないけれど――、ある家の前を通ろうとした。
すると、熊ほどもあるドーベルマンが、家の敷地から道路にはみ出して座り込んでいたんだ。
はいはい、分かっているよ、そんなでかいドーベルマンはいない。でも、幼かった俺には恐怖心から十倍くらいの大きさに見えた。
俺はすぐさま逃げようとしたが、足が震えて動かない。その犬ときたら、ドーベルマンというだけで十分怖いのに、それまで見た犬の中で『KING of 怖い顔』だったから、俺はすっかり怖じ気づいてしまったんだ。
ドーベルマンは俺に気がつき、視線がばっちり合った。もうだめだ、殺される!と俺は思って、泣き出した。
そのときドーベルマンが吠えていたら、俺は間違いなく漏らしていただろうな。ところが、ドーベルマンは殺し屋のような姿からは想像できない、細く優しい声で言ったんだ。
『大丈夫だよー。怖くないよー。優太くんが来てくれて、うれしいんだよー』
そしてしっぽを盛んに振って、俺が通るのを見送ってくれた。
以来、犬が怖くなくなった。実際、俺が犬を怖れなくなると、犬たちも俺にめちゃくちゃ愛想が良くなった。犬たちは俺と友達になりたがっている――ドーベルマンが言ったことは本当だったんだ。
残念なことに、あれが犬が喋るのを聞いた最初で最後だったけれど、俺はいまだに犬に恩を感じているというわけで…やっぱり信じないか」
優太は患畜の犬を撫で、懐かしそうに微笑んだ。ただでさえ細い目が、線だけになって眉の下で弧を描く。
あたしは、このとき、
「あたし、きっと、この人を好きになる」
と直感したのだ。
そんな何年か前のことを、あたしが思い出したのは、春の日差しが注ぎ込む電車の中だった。
淡い光線で白んだ車内に、一人ぼんやり座っていた。三日前のことばかり考えていたが、思いつめて眠れない夜が続いていたせいで、さすがにうとうとしていると、不意に優太の「犬がしゃべった話」の記憶が浮かんだ。
優太に恋した瞬間だ。優しさと細い目の笑顔は、今も変わらない。
いや、正確には、少し違う。それは、三日前までの優太。今の優太を、あたしは知らない。
結婚し一緒に暮らしてきて、あたしは優太の全部を分かっている気になっていた。あたしは、幸せだったから。
おかげで三日前の彼の変貌は、まさしく悪夢としか言えず、それを現実として受け止めるのに、三日間、あたしは部屋に独りきりで過ごす必要があった。
そして、今、ようやく逃げた夫を追いかける気持ちになれたのだ。
でも、それって反対。普通は、「わたくし、実家に帰らせていただきます」ということになり、妻が家を出ていく。ところが、出ていったのは夫で、妻のあたしはどっしり腰を据え、部屋の中央を陣取っていた。
さらに、夫婦げんかのあとに迎えに行くのは夫の役目のはずなのに、なぜか身重の妻が、家に帰らない夫を迎えに行く最中なんて、つくづく逆だ。
だいたい彼は、この身重の身体が気に入らず、妻に言う、この世で最低最悪の言葉を放った。
悲劇の三日前、夕方までは幸せだったのに――。
『彼との結婚を決めた理由?結婚前に彼を実家に連れていったの。あたしが彼と引き合わせたかったのは、両親ではなく犬だったわ。ほら、男の人の場合、動物と遊んでいる様子で、自分の子供への接し方が分かると言うでしょう。彼がわが家の犬をかわいがることができたら、結婚しようと決めていたの。で、彼はどうだったかって?もちろん、合格よ!――アーノルド・シュワルツネッガー夫人』
といった雑誌の記事をあたしが読んでいたのは、産婦人科の待合室だった。
すでに診療は終わり、会計窓口に呼ばれるのを待つだけだ。
「犬好き=子供好き」というアメリカの判断基準をはじめて知ったし、必ずしも鵜呑みにはしなかったけれど、あながち言えないこともない、とは思った。
だって、うちのだんなさまは、大の犬好きの獣医だ。優太の犬のかわいがりようを見たら、シュワルツネッガーの奥さんも、あのマッチョマンから彼に乗り換えてしまうかもしれない。
『妊娠ですね、おめでとうございます』――医者のさっきの言葉が、あたしの頭の中をぐるぐると回って占領していた。顔がにやけてしまうのを、抑えられない。大事な身体のくせに、小躍りして帰った。
家でもうずうずしてしかたがない。早く優太に伝えたい。世界で一番に優太に教えたい。そのあと実家に電話して、次に友達、それから…も、も、もう世界中にアナウンスしてまわりたい!
でも、やはり優太が一番に知らなくてはだめだ。あたしは優太に知らせたいのとみんなに妊娠をお披露目したいのとで、幸福なジレンマにもがいた。
ああ、優太の喜ぶ顔が見たい。新しい家族ができる喜びを、一緒に分かち合いたい。
あたしは、喜ぶ以外の優太を、想像さえしていなかったのだ。
だから、彼に妊娠を告げたとき、例の目が線になってしまう笑顔が来なかったのは、意外すぎた。
優太は背中を向けた。
「困るよ、俺。子供は、嫌いだ」
はじめ、耳と脳が遠い場所にあるみたいに、彼が言っていることがあたしには理解できなかった。
それを察したのか、優太は再び言った。
「子供は、いらない」
「どうして!?」
「言っただろう、子供は嫌いなんだ」
優太は、あいかわらず背中を向けたきりでいる。
あたしはその背中に嘘が張りついていることを証明したくて、昼間の記事の鵜呑みを、ついそのまま言ってしまった。
「だって、犬は好きでしょう。あんなにかわいがっているじゃない」
「犬を好きだからって、人間の子供も同じだとは限らないよ。それとも、日香(ひかる)は俺が犬好きの優しい男だから一緒になったのか?優しい良い父親になりそうだから、俺を選んだのか?悪いがとんだ見込み違いだ」
「あたしは優太が好きで結婚したんだよ」
「だったら、このまま二人きりでいいじゃないか。何の不足があるんだ。子育てでもしなきゃ、暇でしかたがないか?暇つぶしのネタなら他にいくらでもあるだろうに、それをわざわざ事欠いて」