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中川 京人
中川 京人
novelistID. 32501
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蒼天の下

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 その工場の期間延長を断って退職したあと、健康保険の任意継続が切れる寸前に、職安で見つけた教職員団体の求人ちらしがきっかけとなって、ある保険会社を知り、ふた月後には生命保険の営業を始めることとなった。母は私的な保険には、ひとつも入っていなかった。その体験は、他人に保険の必要性を説くモチベーションには充分だと営業支部の皆から言われた。
 保障とは、買っても買わなくても満足感に満たされることのない商品の代表格であり、その販売の難しさは、聞きしに勝るものだった。営業現場である公立学校の職員室では、文字通り孤立するしかなく、途方に暮れた。役者になりきって全身全霊で臨まなければ売れるものではなかった。わたしは運がよかったのだと何度も口にした。特に落ち度もなしに、成績不足で査定が通らず、消えてゆく新人が多かったからだ。
 しばらくして訪れたバブル期の寵児「ザ・セイホ」とその衰退、それに続く超低金利時代といくつかの生命保険会社の破綻、外資の参入など、浮沈の激しい業界ではあるが、何とかしがみついて生きてきた。
 初めての自力契約は忘れられない。先輩の営業部員たちから、領収証を書くときペンが震えるよ、などと言われていたが、そのとおりになった。訪問先の玄関口から車に駆け戻ると、客の書いた申込書を両手でつかんで声に出して泣いた。聞いたこともない声だった。
 それから六年、実家の近くの荒地に小さなプレハブ住宅を持った。人伝に縁あって、ささやかな宴を持ち、二年後には、わが子を抱くこともできた。それまでの自分の人生に何ひとつ不要なものはなかったのだと、過去を全肯定してくれる存在が、抱いた両腕の中で小さく上下する様子を、飽くことなく見つめていた。その息子もこの春、大学進学が間近に迫る高校三年に進級する。会社では、近々勤続二十五年の表彰が──。

 ぶっ、ぐぶっ、ぐふふふーっ。奇妙な音の合間に、すすり泣くような短い鼻息が挟まる。
 ──貴様はパーか、それとも詐欺師なのか。
 ──え、何。中屋くん?
 ──パーか詐欺師か。あるいは作話症、ウェルニッケ・コルサコフ症候群。
 中屋くん……。中屋くんが笑っている。声でわかる。
 ──君は事故に巻き込まれたんじゃないだろう。いい加減なことを言いなさんな。それに俺はいま都内の私立大学で金属加工について教えている。それでいいのかい。いろいろ言ってくれるじゃないか。俺は東大には行ってないし医者にもなってない。君も知ってるはずだ。それと君は同窓会には出てたじゃないか。いやいや出てたよ。よく出られるもんだとみんな呆れてたからね。ほとんど聞こえよがしに言ってたのに耳に入らなかったのかね。君はけっこう潰れてたしな。喋ってることは支離滅裂だった。本当の話だって。俺は車で引き取りに来た奥さんとふたりで、ベロンベロンの君を担いで君んちのワゴン車まで運んだんだもの。
 ──会ったのか、家内に。子どもは? ワゴン車……。
 ──会ったさ。だから会っただろうがよ、奥さんに。その話、してないの? 毎度のことみたいだったけど、君は、おれはひとり者だこんなやつは知らん、とか何とかわめいてたよ。
 ──子どもは? あのう……。
 ──だから君がしっかりしてればさ、あんなことにはならなかったんだって。地元の子らは、みんな言ってるよ。
 中屋くんが、ゆっくりと梟のような顔に変わっていく。フホッフハッフー、プパップパップー。違う。梟はそんな声じゃない。違うよ中屋くん。中屋くん。そうじゃない、息子があんな風ってどういうことだ。事故はあったじゃないか。
 ──結局貴様がしたことだろう。みんな貴様のせいだろう。
 梟の顔が人間の顔に戻ってきた。半透明でフォトコラージュしたような醜い顔だ。いや戻ってない。中屋くんの顔ではない気がする。丸い腐った目でこちらを見ている。そしてそいつが口を開き、ゆっくりと話し出した。僕の口真似をしていた。
 ──そうなんだ。もしあの事故に遭わなかったら、どんな人生になっていただろうかと考えることはある。何かひとつでも欠けていたら、たとえば、あのトラックが止まってさえいたなら……。
 生臭い口臭がした。しかし他者のそれではなかった。

 ……有限会社海住運輸のトラック運転手勝田正己(仮名・三十九歳)は結局、その日も運転席で早めの昼食を取ることにした。四日続けての「ほか弁」である。午後一番で、仕分けしたイカナゴの稚魚──当地では小女子(コウナゴ)とよぶ──を、総重量十一トン半の保冷庫に詰めて、南に小一時間の所にある中央卸売市場まで走ることになっている。食事もおおかた終わりかけのころ、一台の車がはるか右方向から猛烈なスピードで近づいてくるのを見て、彼は舌打ちした。その堤防道路は一般車両の通行も許されてはいるが、魚介類を市場や加工場に運ぶための大型車が、つまりは勝田らのような者が、優先であるという意識を、彼は何となく持っていたからだ。
 ──年度末に、どこぞのバカ営業が焦っとるな。素人は国道を行け国道を。
 緑茶のボトルに口をつけて横目で見ながら、ふん、と腹の中でせせら笑った。背広を着た人間は嫌いだった。営業などという仕事はなおさらだった。それにしても尋常ではない速度だ。彼の胸には、目下のこの違法を咎めたいという気持ちが沸々と湧き起こってきた。こやつは百キロは出している。公共の場所だというのに太いやつだ。このような無体を許しておいては後々よろしくない。
 そう考える自己を意識するとき、自分には正義感があると思えてきた。名前の字義だけでなく、何か行動で表したいと思った。このまま見過ごすわけにはいかない。だがスピードがスピードなだけに、下手をすれば事故につながるかも知れない。よしそれなら警告を発するというのはどうだ。自慢のエアホーンを一発お見舞いしてやろう。これならかりに何かあっても言い訳が立つ。
 白い営業用のバンは三十メートルの距離まで来た。一秒後には目の前を通り過ぎるのだろう。そうはいくか、うまうまと。意外にも運転しているのは中年の女だった。彼の嫌いな年恰好だ。助手席に若い男が乗っている。なんたらフーズというロゴと人形さんの絵から察するに、どこかの食品会社か。どうでもいい。非常識な連中だ。ババアめ、目に物見せてくれるわ。
 勝田は割り箸を持ったまま、ハンドル中央のクラクションを右の掌で力強く押下した。ドイツ製コンプレッサーで十二バールまで加圧したエアホーンが、コンマ何秒かのタイムラグのあと、比類のない甲高い音で周囲の空気を震わせた。営業車がトラックの正面にかかる直前だった。
 営業車が驚く様子を見た瞬間、彼は子どもの時分に通っていた銭湯の風景を思い出した。並んで体を洗っている老人たちの背中に忍び寄り、桶で冷や水をかけるいたずらだった。もそもそ手足を動かしていた裸の老体が、突然ひゃっと動くのが面白くて、何度怒られようがやめなかった。
作品名:蒼天の下 作家名:中川 京人