蒼天の下
気がつけば二十一の手前だった。身体はどこも悪くないのになかなか就職活動をしようとしないわたしに、父は自分の勤務するG電機でのアルバイトを持ちかけてきた。父によるとG電機K工場では、折からの旺盛な自販機需要に応えるべく増産体制を敷いており、西日本各地から農漁業の閑散期に合わせて、季節工として人手を頻繁にスカウトしているという。わたしはそれを好条件だと思い、G電機で雇ってもらうことに決めた。QC係の一員として製造現場のラインの末端で、流れてくる仕上がり品の動作チェックなどを受け持つことになり、その七か月後には他の若いアルバイトとともに適性試験を受け、正規の雇用を得ることができた。朝の八時から午後四時四十五分までの九時間弱、頭の先から踝まで、父と同じスカイブルーの作業服を身につけることになったのである。
ただ、わたしは母の死がきっかけとなって、法律、ことに私法の分野に興味が移っており、さらにはそれの延長にある不動産関連の仕事に就きたいという気持ちが強く出るようになった。その過程で司法書士という職業を知り、ゆくゆくは自分で事務所を構え独立開業も可能という、その資格を取りたいと願った。
ところが当時合格率の高かった行政書士の資格試験はまだしも、次に挑んだ司法書士試験には落ちてしまった。リーガルマインドも実務経験もない身の上に加え、付け焼刃でしかない法律知識と、残業と家事の合間に独学で習得した程度の法務スキルではいかにも覚束なく、事前の予測どおり、合格点まで到達することはなかったのである。
では、わたしは実務家としての司法書士を本気で目指していたのかというと、本当はそれも怪しい。勉学なり試験なり何かしらを自分に課すことで、当然に人が為すべきことを避けようとしてきた節がある。G電機K工場での作業そのものは苦行ではなかったが、いつまで続くかわからない平穏さが不愉快だった。自分は九死に一生を得た特別な人間だという、一種の思い上がりのようなものがあった。幼いころによく見舞われた自家中毒症を契機とする自己愛的な性格も災いしたようだ。わたしは気が短いのに、社会の尺度では数年のタイムスパンは取るに足らないものらしい。正社員になって四カ月目を迎えていた。
アルバイトから正社員に昇格したはずなのに手取は下がった、試作品試験の部署だと聞いていたのに現場のラインだった、などという理由をつけて、いったん退職するので期限付きのアルバイトに戻してはもらえまいかと、何度も昼休みの残り時間を潰して工場の職制と交渉した。渋面を作る相手に前例はないのかと畳みかけると、そんな前例があるか、と一喝された。父の面目は丸潰れということらしい。職制の人事担当者たちから、あんた本当にあの中川さんの息子さんなのか、という意味の言葉を何度も受け取った。そのとき父は四十九歳、心身ともに強壮強健にして病知らずの皆勤もの。その前々年に勤続三十年の表彰状と副賞の金一封ならびに豪華掛け時計一式を、わが家の居間に持ち帰っていたのだった。
わたしは退職し、のちに希望どおりアルバイトとして再雇用された。正社員最後の日、工場の建屋と変わらないほど天井の高い総務課の部屋で、作業服にネームプレートを着用した担当のお姉さんから退職金三千円也の入った封筒を受け取り、安全靴と作業服上下と作業帽をごみ箱に投げ入れた。工場からの帰り道に立ち寄った書店で『岩波/統計物理学』を買ったら、所持金は二百円も残らず、K駅のホームの立ち食いうどんを食べることもできなかった。
そして半年後、期限満了によりわたしは解雇された。同じ持ち場の鳥羽の船乗りも、熊本の元歯科技工士も、季節工のほとんどは解雇された。
そのころわたしは、すでに生活にメリハリがなくなっており、司法書士になるための勉強も滞っていた。学力は以前よりも劣るほどで、受験しても受かる見込みはなかった。わたしは所属する製造ラインの作業主任の自宅まで押しかけ、雇用延長を掛け合ったのだが、一蹴されるにも似た、けんもほろろの応対だった。
父は人生の全部が徒手体操の繰り返しであると認識しているかのように、規則正しい生活を続け、交代で家事をこなし、賢明にも、わたしの将来に関心を持つことはひとつもなかった。母の急死により、人が変わったように荒れ狂うのか、それとも堰を切ったように悪行に手を染めるのか、意外にも女遊びに現をぬかすのかと、あらぬ想像をしたこともあったのだが、父はそれらすべてを虚しくし、淡々と義務的な営みを消化するのみで、呆気ないほど何も変わらなかった。G電を首になったわたしのことを大馬鹿者だと叱り飛ばすこともなかった。
二十四の年男を翌年に控え、わたしは職安で市内の土地家屋調査士事務所の求人を見つけ、応募してみた。雇ってはもらえたのは幸いだったが、来る日も来る日も、雑用だけで二十四時間の半分が消えた。司法書士や調査士が先生と呼ばれていることを初めて知った。
陰鬱な事務所の中で、専用ペンを使って法務局の公図のコピーを模写し、所有権保存登記の申請書を和文タイプで打ち込み、あるいは不動産会社から来た使者の前で、毎度毎度の米搗き飛蝗よろしく、へこへこと頭を下げているノーネクタイの地味目な中年男たちも、皆が皆、資格取得者なのであり、先生なのである。
かくして自分が着こうと足掻いてきたスタート地点が、ちっぽけなものに見えてきた。法解釈がどうの判例がどうのよりも、それまで自分が等閑にしてきた、人と人との付き合いや慣習、商道徳、敬語の使い方が、重要な地位を占めていることを痛感した。それらは自分が夢想した風景には描かれていなかったものだった。法というものに硬質で論理的な性質を認めていたからこそ、わたしはそれに仕える仕事に憧れも抱いていたのに。
雑用の合間に暇さえあれば、わたしは通説と学説の分かれる事案について先生に質問をし、さまざまな民事法の欠陥を口にし、登記実務の法的根拠を問いただした。法務局では職員と口争いを繰り返した。
事務所の所長である調査士の先生は、ふた月目の半ば過ぎまでわたしを雇用したが、一級建築士の資格を持つ新入りの登場をもって、わたしの職を解いた。最後の十五分間の面談により、わたしは自分を、解雇することに何らの頓着も持たれない人間であると知った。
人生とは濃淡のまだらな如何物が浮遊する毒スープには違いないのだが、心構えによっては別なものも、あるいは別なものとしても見えるようだ。わたしは調査士の事務所から二回目の給料が出るまでの十日ほどの間に、自動車関連の期間工として採用してもらい、車体製造二課合成樹脂係でダッシュボードの組立作業員として八か月間働いた。
本格的なライン作業はこたえた。しかし、別な安堵感もあった。この身体を酷使する作業の繰り返しにより、生活のリズムの輪郭線が濃くなり、休みの続く日でも規則正しい生活をできるようになったのだ。そうして他人の喜怒哀楽を実感できることの喜びや、他人を手放しで信頼できる心など、当然に他の人びとが味わってきたと思われる果実に、わたしもひとつ歯形を立てたような気がしたのである。わずか一年足らずの間に、自分の中から何かが揮発し、入れ替わるように浸潤してくるものがあった。