蒼天の下
ずいぶん時間がたってから、わたしは生まれて初めて警察の事情聴取というものを受けた。三方を壁で囲まれた三畳間ほどの独房のような部屋で、自分の言葉が公的な文書に記録されていく様を、わたしは不思議な気持ちで眺めていた。青山という名の署員は、万年筆を使って意外に思うほど几帳面に、わたしの声を文字に変換していった。無意識のうちに、子どものころによく覗き見た医者のカルテを思い出していた。そこに書かれた文字を見て病気の治り具合を占っていたものだった。目の前の「人」や「物」に対する見方が、今の自分と、昔の自分とではたいそう違っている。わたしにも手放しで人や物を信頼する無垢な心があったのだ。その若い署員の描く文字は、意味を超える何かを保持し得ると感じさせた。楷書体で書かれた紺色の文字は、言葉の意味だけではなく、それに添えたわたしの気持ちをも乗せているように思えたのだった。
留置場に保管されていた事故車両を見る機会があったわけだが、あの白くふっくらとしたファミリアバンが、前方のバンパーから運転席の後ろ側にかけて、砲撃を食らったかのような有様になっていた。自動車のボディというものは、衝突で破壊されるというより、くたくたに折れ曲がるもののようだ。いたるところで蜘蛛の巣の形の錆が出ていた。異臭がして銀蝿がしつこかった。
車体の惨状を目の当たりにして改めて歎息した。あれではドライバーは助からないと誰が見ても思うだろう。母の死んだ確かな原因を冷酷に告げられ、冷静に受けとめられた気がした。胸中では悲しみというよりむしろ納得する部分の方が大勢を占めた。助手席の側も相当ひどい状態だったが、わたしの方は打撲や擦り傷以外は左肩を脱臼しただけで、肋骨の一本も折ることなく無事でいたのだから、何かのはずみとしか言いようがない。事故の瞬間に衝撃でバンの方が左回りに半直角ほど回転しており、そのことで助手席内部のダメージが軽減されたのではないかと聞かされたが、特に感想はない。あんなに悲鳴をあげていた前輪のタイヤは、ひしゃげたホイールに、それでもかろうじて噛み付いたままでいた。後部ドアの上にいた「さーちゃん」の方は、お顔のすり傷と凹みで人相が変わってしまったものの、どうにか笑顔は保っていた。母のいた位置とは一メートルも離れていなかった。警察の人と何か話したと思うが、内容は全然憶えていない。散り始めた桜が事故車の上にも落ちていた。
あの衝突のしばらく後、救出される前にわたしの意識は戻っていた。誰か男の声でわたしに呼びかけた──おい起きろ! 声を出せ! 名前を言え! おい! と怒鳴っていた──のも憶えているし、通報を受けて駆けつけた救急車のサイレンも耳にしている。あまり時間をおかずに失神を繰り返すのは難しいことなのだろうか。それは残酷な状況だったと、あとから人には言われたし、自分でもそうなのかなと思う。わたしを産んでくれたこの世にたったひとりの人は、血染めの着衣と生活臭に包まれたまま、何も語らずわたしとしばらくそこにいた。あんな母の姿を見なければよかったと悔んだりもしたが、いまではもう、どちらとも言えない。
親戚や友人たちからは、衝突の直前の様子を聞かれることが多かった。様子といっても、まこと直前の情報は、明るいか暗いかのどちらかだけが意味を持っていた気がする。わたしはトラックの隙間の、あの白い光を見たからこそ助かったのではないかという気がしてならない。きっとわたしの魂はいったんあそこをくぐりり抜け、そして再びどうにか無事でいた己の身体を見つけて戻ってきたのだ。希望の右隣にはいつも幸運がいるなんて能天気に考えているわけでは決してないのだが。あの光を母は見なかったのだろうか。隙間はひとり分だとでも思い込んでいたのだろうか。
些細なことで、存続してきたものが目の前から一瞬にして消えること。
実際に経験してみると、すわりの悪さというか、相当の違和感を感じる。きっかけとなる出来事が、取るに足りないもの──というのか、刹那的であればあるほど、この傾向を帯びるようだ。やはりとまさかの違いなのか。
それまでわたしの中では、人が生を営んでいることは、つねに巨大な慣性──惰性あるいは実感とでも呼べばいいのか、他に適当な言葉が思いつかない何か──に包まれているとの意識を持っていた。人というものはつねに移り香を残し、その輪郭はいくらかぼやけていて、予感と余韻を滲ませているような存在であるとする感覚が何となくあったのだ。ハードディクスやメモリーからデータが飛ぶように瞬時に消え去るものではなく、鉛筆で書いた文字を消しゴムで消すように失われてゆくものなのだと。
不慮の事故を経験して悟った。それらはすべて幻想である。つまりは、人はデジタルに死ぬ。命の断面は、その鋭利において全きをなすものであって、惰性のごときは幻影にすぎなかったのだと。
母の人生は終わった。その鋭利な断面は、わたしを含む少なからぬ数の者を傷つけ当惑もさせたが、それらの命は続いている。後遺症というほどではなかったにせよ、脱臼した左肩にはその後も不具合を覚えた。左右の腕で同じ動作をしても、角度によっては左の肩だけが、プチプチとかゴリゴリとか、こもった気味の悪い音を立てた。重いものを持てないとか腕に力が入らないということではない。普段の生活に支障はなかった。事故の記憶という意味において、わたしはその症状が消えないことを願った。音の入れ墨みたいなものだと思った。
医学を目指す意欲は消え失せた。母と対になって消えた気がする。医学への志は、母の期待に応えようとする体裁のようなものだったと思う。もとより意志もなかったが、はじめに籍を置いていた私学に復学することもできなかった。学費の滞納ですでに除籍処分を受けていたのである。
父はわたしの大学進学断念にさほど反対はしなかった。元来父は、母とペアでいるときでないと強い意思表示をすることはほとんどなかった。わたしの進路に関心があるような外見も、母の熱意に引っ張られた結果だったことがこれではっきりした。
母の死んだあとでも、父のわたしに対する態度に大きな変化はなかった。ただ、わたしが夜遅くまで居間で起きていると、「無駄に電気を使ってもったいない」と小言を垂れるようになった。それ以前にそんなことは一度もなかった。わたしが学業を放棄したあとの、それまで見たこともない父のささやかな変化だったと思う。学問なればこそ深夜に及ぶべからめという、無学な父なりの思い入れがあったのだろう。