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中川 京人
中川 京人
novelistID. 32501
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蒼天の下

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 これから大きな船に乗り込もうとしているのだ、という実感が押し寄せてきた。正規のチケットを手に悠然とゲートをくぐるのもいいが、こんなふうに母とふたり音と匂いにまみれて出帆の五分前に駆けつける方が自分に似合っている、とさえ思えてきた。わたしは憶えていないのだが、自家中毒で入院していた小学三年の冬、二時間かかる点滴の途中で眠ってしまい、ベッドの上で目を覚ましたわたしは、たまたま目が合った母に、「ぼく、やっぱりお医者さんになるよ」と言ったそうだ。
 ──何で「やっぱり」なんだろう、医者の家に生まれた夢でも見たんだろうかと笑ったりしたんだけど、あのときお前の頭の中では、それが天職だって閃いてたんだね。
 わたしが大学を中退して医学部に挑戦したいと表明した時、母はそんなことをわたしに言ったあと「親ばかちゃんりん」という語をつけ足した。
 左手の海側がまもなく小さな漁港にさしかかるところだった。時刻をしきりに気にしていた母も、それでもスピードは落としたのだが、実速と体感とはかなりの隔たりがあり、メーターの目測で時速九十キロを超えていた。目が高速に慣らされたせいで、視界の中のあらゆる変化が緩慢に感じられた。水飴の中で動いているかのようだった。堤防の左右には、海老や小魚を加工をする中小の作業場が現われ始め、この無法地帯と化した道路──よく堤防は正式には道路ではなく、道路交通法は適用されないと言う人もいるが、事実はそうではなかった──に接続しようとする坂道が、陸と海の両側から幾筋も寄せてくるようになった。漁港の周囲の片付けはたいてい午前中に終わってしまうので、昼前のこの時間には人や車の行き来はほとんどない。
 湿った逆光気味の視界の中で、漁港側のゆるい坂の途中で、堤防に頭を向けて停車しているトラックの姿をとらえた。魚港の敷地はせまく、大型車の場合は魚介の積み込みをする場所が限られているので、ときにフォークリフトを使ってこんなところで作業をしているのだ。みるみる近づいてくる。優に十トンクラスはある巨体だ。運転席には黒く人影がある。母は右側からの進入車両がないのを確認して、再び加速を開始した。そのときわたしの口元は、あることに気づいて動いた。
 ──トラック、
 声を発した刹那、自ら言おうとしていることがわかった。
 ──動いてない?
 わたしにはそう見えた。次の瞬間、確かにトラックは動き出した。あるいはそのように見えただけで、じつはトラックはとっくに積み込みを終えていて、このときすでに反対側にある加工工場へと向かいつつあったのかもしれなかった。片側が開け放たれたその荷台の近くに、フォークリフトや木組みのパレットが置かれていたので、停止して作業しているように錯覚したのだ。
 大型車は鈍重だ。鈍重だがいったん動き出すと圧倒的でもある。率直に言えば、そのときには、むしろ俊敏に感じた。鉄人の顎のようなフロントバンパーが堤防に乗り入れてきた。どうしてと訝るほどに他愛なく、前方の堤防上に残されていた余白が、左方向から消されてゆく。
 右側を脱輪させてもいいから、トラックの鼻先をかすめてクリアできれば……、といった即席に浮かんだ目論見も、その成功のイメージとともに薄れつつあった。母もわたしも落ち着いていたはずだ。それなのに顔面の皮膚も筋肉も、まるで動かなかった。落ち着いてはいたのだがそれだけに、もはや手遅れかも知れないという感覚があった。それほどこちらの車速があり余っていたのである。
 営業用のバンは加速から一転、全能力が制動につぎ込まれた。ボンネットの両脇から青白い煙が噴き出すのが見える。同時に車両全体は恐ろしい音に包まれた。身近なイメージのあるタイヤからそのような断末魔の苦しみを体現した声のような音が出るとは信じがたかった。聞いた以上は何かが起こらないはずはないとさえ思わせるものだった。それほどのブレーキングにもかかわらず、皮肉にも速度はそれほど落ちたように感じなかった。
 タイヤの音を耳にしたのか、横顔を見せていた運転手がこちらを向いた。逆光で表情はわからない。黒い影が驚いているようにも怒っているようにも見えた。だがトラックは止まろうとしなかった。堤防にかけた前輪を回し、そのまま横切ろうとしている。車間距離から見て、ファミリアバンが減速すれば大丈夫だと踏んだのだろう。その判断は間違ってはいたのだが、むろん彼を責めることはできなかった。言うまでもなくわたしたちの行動は大きな問題を孕んでおり、たとえそこでトラックが停止したとしても、もう解決策にはならなかったからである。
 一秒の何分の一に過ぎなかったのだろうか。わたしには、そしておそらく母にも、何もしない何もできない空白時間があった。今まで生きてきてこんな時間は持ったことはなかった。そのわずかの間に、目の前のトラックの横っ腹は、現場にいる誰の目にも切実な問題となった。どうしようもないと悟ったが、何かはできるようにも思えた。トラックの前輪と後輪の間、恐竜展で見た竜脚下目のあばら骨を思わせる巻き込み防止用のガードと燃料タンクの隙間から、これから行くはずだった世界、あるいはただのコンクリートが白く光って見えた。その隙間を通り抜けられるような気がした。あの白く光る向こう側は、M大へと続いている。学務係がしびれを切らしている。午前中に限るよとあんなに念を押したじゃないか。君ははしゃぎ過ぎたんじゃないのか。前方で甲高い音が弾け、百分の一秒後に轟音に変わった。谷岳氏が怒鳴ったのではなかった。百分の秒一は、わたしの貧弱なレトリックに過ぎない。轟音はボーリングのストライクの音を思わせる最期のぶっ放し、カタルティックなものだったが、途中から聞こえなくなった。
 わたしたちは、M大学の敷地には入ったものの、担ぎ込まれたその先は、むろん学務係などではなく、医学部付属病院、通称医大の救急部だった。わたしたちは、と言ったが、担架で搬入されたのは、わたしと母の遺体だ。あの事故で母は即死だった。車内は業務用のデリカバットと細かいガラス片、血や見たこともない体液、それから未消化の吐瀉物がおじやのようにごちゃまぜになっていて、その中から母の遺体、と判断せざるを得ないもの、が出てきた。巨大なキムチの塊みたいなものが、身体を包んでいた作業服だと気づいて、実感が湧いてきたといった有様だった。
「……の会社員中川朱実さん(四六)は全身を強く打っておりまもなく死亡……」という新聞記事からは、母の死んだときの様子を知ることはできない。親子して血まみれの状態でわたしを生んでくれた母とは、二十年後にさらに悲惨な状況のもとで別れることになった。と同時にこの日は、わたしのもうひとつの人生の始まりともなった。
作品名:蒼天の下 作家名:中川 京人