蒼天の下
ありますあります、これから出るところです、必ず午前中に着きますので。そう押し返しておきながらも、まだ半時間近くあるじゃないか、この学務係はせっかちが過ぎるのではないか、との疑いが染み出てくる一方で、母にしてもそろそろ着いてもよさそうなものだと気を揉んでいた。あれに三分これに五分と時間を見積もってみても、なかなか理屈通りにはいかない。遠ざかる人の歩みは速く、追っ付けやって来る車でも待つ時間は長い。
さらに七分が経過した。と、勝手口の方角からクラクションらしい音がやかましいので出てみると、ファミリアバンの営業車が横付けされていて、母が運転席の窓から顔を出して怒鳴っていた。後部ドアに描かれた、勤務先である佐織フーズ株式会社のイメージキャラクター「さーちゃん」の不細工かわいい笑顔が気恥ずかしいとも思ったが、かと言って他に手立てがないのだから、それで行くしかなかった。
──何してるの。家の鍵かけてきて。急いで。
勝手口側に面した路地からはすぐに大通りに出られるので、母はそこでわたしが地団駄踏んで──いらいらと足踏みをして、待っているものと思っていたようだった。腕時計を見ると、正午まであと二十分を切っていた。
二十歳の運動神経でもって、転がるように家中を施錠して回り、急でごめんね、とだけ言って助手席に転がり込むと、ほぼ同時に母は無言でローギアに入れた。国道とは反対方向へ鼻先を向け、乱暴に五百メートルほど進んだところで、海岸沿いの堤防道路へ右折れして乗り上げると、母は猛然と加速を始めた。
二速ギアのまま七十キロまで引っ張ってから三速に入れ、さらに加速しながら、輪ゴムを巻いた左手首を素早く返して、またたく間に五速までシフトアップしていった。左側の視界には、水蒸気のせいで曖昧になった水平線らしきものが横たわり、空の薄鈍色をゆるゆると返している。
車内の圧迫感を逃がすつもりで助手席の窓を開けてみたが、書類が飛ぶから開けないでと怒鳴られて素直に従った。幅六メートルほどの堤防を時速百五キロまで加速したところで、空き壜を箸で叩いているような速度超過の警告音が鳴り始めた。母はようやくひと息ついたのか、とりあえずよかったじゃない、と前だけ向いたままつぶやくように言った。
うん、と口の中で答えた。よかったには違いないのだが、採点ミスなどではなく実力で入試に落ちたことがこれで知れたのだ。とっさに素直な気持ちになれずに、わたしは母の横顔に別な言葉を返した。
──お金はどうしたの、間に合ったの。
──大丈夫、間に合うわよ。
──そうじゃなくてお金。入学金。
──ああ、OKOK、ここにある。社長に借りた。
母は助手席のダッシュボードを指差した。開けてみると、奥の方で使い込まれたセカンドバックが威勢良く膨らんでいた。中身はほとんどが納品書や領収書などの帳票の束なのだが、わたしはその中に社名の入っていない白封筒を見つけた。
封筒の口を菱型に開いて中を覗き込んでいると、母が続けた。
──それよか、なんでこんな時間に家にいるのよ。予備校はどうしたの。
──医進コースは、今日は午後からだから。
ふーんと母は聞いていたが、真っ赤な嘘である。予備校になど行くはずではなかったとの落胆が高じて、新しく敷かれた軌道に素直に乗りこめずに、捨て鉢になって不貞寝をしていたというのが真相なのだ。決してでかしたこととは言えないが、ともかく鉢を投げ捨てたおかげで好運を受けとめることができたのは事実である。わたしは話の向きを変えた。この僥倖を前に、つまらぬ詮索なぞ取るに足らないではないかと思った。ともかく何か喋りたくなってきたのだ。
──予備校に振り込んだお金、もったいなかったな。
──しかたないよ、滑り止めだったと思えば。次は落ちるわけにはいかないもんね。
家は貧困には中らないが、そう外れたものでもない。重電関連の工場従業員の父と、食品加工会社にパートから入った母が、二十年がかりで貯めてきた学費があるだけだ。学歴という壁の前で、何度も泣いてきた両親だった。このお金だけは進学や教育の費用としてなら自由に使えるからね、と母は言っていた。とはいえ、わたしのわずかな力不足のせいで大金が流れ出ていったのだという思いは消えなかった。そう考えているうちに、両親にすまないという気持ちが、単にもったいないという金銭欲にすり替わってきた。
──わけ言って返してもらおうか。
厚かましくも、取り返した暁には半分くらいは成功報酬として回ってこないものかなどと期待したのだ。
──ああいうところはね、いかなる理由があろうと返しません、なんだよ。
──理由とかじゃなくてさ、何かこう、温情でさ。
母は表情を変えずに車内の時計に目をやると、アクセルを踏み込んだ。耳に入るあらゆる音が緊迫感を増した。回転計の針が計器の右半分のゾーンに回り込んできた。ファミリアバンの暴走である。フライパンを片手に中途半端に微笑む一頭身半の「さーちゃん」が、うららかな湾岸沿いのコンクリートの上を横走りでぶっ飛んでいるのだ。
──それ返してもらってもさ、こっちのツキが落ちたんじゃ何にもならないしね。
──大丈夫なの。百四十キロだよ。
速度計の針が助手席から見えた。対向車が見れば仰天するようなスピードである。いや、本当に仰天していたら衝突事故は必至だ。
──ひとりの時にはこれくらい出してるわよ。朝早くとかにね。
佐織フーズも十二年目になる幹部社員の母は、たびたび朝の四時に出勤して、自動車部品工場の給食用の中華卵焼きを焼く。おもに母を使うのは、時間外手当を払わないで済むという、社長の思惑である。
自宅から大学までは直線距離で八キロほどである。ドライビング・ハイというのか、オバサンならではの暴走願望でもあるのか、こうまでしなくても間に合うだろうにと思った。もっとも、このあたりの堤防は両側が切り落としてあるので、人馬の飛び出しなどは考えられず、人や自転車さえ近くにいなければ、スピード自体はどうということはない。
子どものころには、ずいぶん遠いとの印象があったM大キャンパスだが、受験や下見で何度も行き来していると、さほどでもないことに気付く。こんなふうに堤防を車で飛ばすと、五分ほどで前方の霞の中から大学付属病院の特異な輪郭が姿を現してくるのだ。これで間に合う。建物の周辺を飾る白い塊は桜だとわかった。時期が来れば、ちゃんと根を絡め、枝を触れ合って咲くものなのだ。
タイヤからの音と振動はすさまじかった。後座を潰して作った広い荷台一面には、納品先から回収したらしい業務用のデリカバット──惣菜を入れるプラスチック製の浅い容器だ──がうず高く積まれていて、タイヤが堤防の継ぎ目を拾うたびに笑うような音を立てた。閉めきった車内には、惣菜の煮汁の香ばしい匂いと古い醤油樽のような匂いが充満している。母の作業着の匂いと同じだ。間断なく鳴り続ける例の警告音は、もう気にならなくなっていた。