小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」
中川 京人
中川 京人
novelistID. 32501
新規ユーザー登録
E-MAIL
PASSWORD
次回から自動でログイン

 

作品詳細に戻る

 

蒼天の下

INDEX|15ページ/16ページ|

次のページ前のページ
 

 ──それで君自身はどうなんだ。皆さんの前で約束できるのかね。本来なら君がここまで来てひざまずいて誓うべきほどの事態なんだよ。今後きちんと授業には出る、試験は受ける、もちろん受けるだけじゃだめだ、及第点がいる。そして授業料はきちんと納付する。あたりまえのことばかりだがね。どうなんだ。
 マフィアの言葉に、放心したようにわたしは頷いた。と見られていたのだろうか。自分に都合の悪いこのあたりの事情は記憶に薄い。何かを言葉にしたのかも知れないが、それも定かではない。
 ──じゃあ、そういうことで。詳しい指示は追って連絡する。きょうはこれでお開きとしよう。先生方よろしゅうございますか、どうもお疲れ様でございました。
 まだ何か言い足りない様子のマフィアにかぶせて仕切ったあと、谷岳氏は父に向かってどうもご足労でしたとポツンと言った。記憶のうちでは、エジソンは最後までひとことも発言しなかった。
 いっぺんに空気が入れ替わったように、室内の人間の表情や仕草が青青としてきた。父の方に目を向けると、何の意味があるのか、深刻そうな様子で頷き返してきた。
 ──中川くんよ、教授がたに頭なんか下げてみたらどうなんだろうねえ。
 谷岳氏がそばに来て耳打ちした。ペーパーをチャッチャッと揃え、音を立てて椅子から立ち上がろうとしていた四名の教授たちの前に進み出ると、わたしは深々と頭を下げ、ありがとうございましたと声を添えた。そんな行動は平気でできた。体を曲げながら右脇の下から後ろを覗くと、やはり膝に手をあてて腰を折っている父がいた。初めて申しわけないという気持ちになった。と同時に、父に対する彼らのサディスティックな志向を改めて感じずにはいられなかった。
 教授たちがほのぼのと部屋を出たあと、ドアの前で、わざとらしくI先生が手を差し出してきた。手を揺らさずに左手を添えて握りながら、頑張れよ、と小声で言ってくれた。先生の右手は熱かった。はい、と力なく答えたあとで廊下に出たわたしは、右手のひらを鼻の前にかざした。握手のあとでは、においを探す癖がついていたのだが、それはなかった。
 エピソード記憶があったあとの時間の進行は速く感じるものだ。してみると先の会合も、わたしには衰えにくい鮮明なイベントだったと言うべきものなのだろうか。
 さて、あの場で確約がなされたと考えることもできるのだが、その言葉はわたしの心には、父が勝手に書いた誓約文のようにプリントされており、血肉を穿つものではなかった。要するに、わたしはひとつも直っていなかったのだ。
 相も変わらず、自室の机で味噌を絞って水を取り出していると、居間の電話が鳴った。案の定、谷岳氏だった。
 ──おい、君な、中川くん。あれから全然授業に出てないそうじゃないか。どういうつもりか。教授と約束したんだろうが。怒ってるよ教授。
 怒っているのは臼井教授やマフィアではなく、電話してきた谷岳氏本人だろう。しかしこの時点でも、まだわたしは曖昧な態度を取り続けるつもりだった。
 ──理由を言いたまえ。授業に出なかった理由は何だ。
 だが追い詰められて逃げ場がなくなると、使う言葉も剥かれて地金が現れてくる。
 ──大学に戻る気がないからです。
 ──なんだそりゃ。……はん、それならそれでこっちはいいんだよ。ただ手続きというものがあるからね、世の中には。そんな勝手なことじゃいかんだろう。
 戻ると戻らないに関係なく教授との約束は守るべきだったんじゃないかとか、これまで学務係の方としてもこの件でいろいろと段取りを整えてきたのだ、などと語ったあとに、谷岳氏は聞いてきた。
 ──留年じゃなくて辞める方なんだな。それしかないわな。どうするんだこれから。
 ──答える必要があるんですか。
 ドラマで何度も聞いた台詞だった。吸引器に吸い出される膿疱のように、ほろっと出た。
 ──そういう態度な。そうか、それはいかんなあ。そういう態度は君のためにならんよ。
 ──どのみち、今後大学とはかかわりを持ちませんので。
 ──だからそういうときの態度を言ってるんじゃないか。辞めるとなったら何を言ってもいいなんてことじゃないんだよ、世の中は。
 ──あの日。ほら、初めて谷岳さんから補欠合格のお電話をもらったとき……。
 ──何が、ほら、だ。君の態度は全般によろしくない。そんな態度でこれから世間に関わっていけると思っているのか。大間違いだ。
 ──電話があったのは三月の二十八日の午前十一時。よく覚えています。でも学務係のあなた方が欠員が出ることを知ったのは、遅くともその前日、二十七日の午前のはずです。なぜなら……。
 ──あくまで今後の君のためを思って言ってるつもりなんだがな。
 ──なぜなら、三月二十日、入学手続きを済ませた入学予定者のひとりが交通事故で死亡したからです。
 話している前後で、口の中にどくどくと唾液が溜まってきて、そのたびに飲み下さなければならなかった。
 ──交通……死んだ? 何を言っとるんだ。それから君な、授業料を滞納してるな。前期も後期もだ。知らないだろうから言っといてやるが、このままじゃ退学にはならんよ。除籍になる。半期分だけでも授業料を入れてもらわないと、こちらとしては退学届を受理できないんだよ。
 ──僕が言っているのは増村教授の息子さんのことです。
 わたしはマフィアの名前を出した。舌の裏側に唾が充満してくる。
 ──だから増村がどうしたというんだ。何をわけのわからないことを言ってるんだ、さっきから。
 ──あなた方は欠員の穴埋めに正規の方法を採らなかった。学部ぐるみで画策し、あの年の医学部入試に落選した増村教授の息子さんを繰り上げ合格させようとした。しかし、彼の得点は合格最低点の次点ではなく、少なくとも僕よりは下だった。増村教授はそのことを知って息子の補欠合格を辞退、というより正規の方法でいくべきだと主張したのです。翌年息子は実力で堂々と入学してきます。僕の同級、つまり僕より一年後に入学した学生に、増村明生というのがいるでしょう。彼が当人です。そしてこのごたごたで僕の側への連絡が正規の手続きによる場合よりも半日以上遅れ、そのせいで……。
 下顎に溜まった唾のせいで話しづらいのに加えて、涙まで出て止まらない。最後は嗚咽で言葉にならなくなった。
 ──そのせいで僕の母は死んだのです。
 静寂のうちに嗚咽だけが流れた。電話の相手はしばらく無言でいたが、やがてどちらがともなく発音をしはじめ、会話は再開したが、谷岳氏は当然ながら電話を切りたがっていた。
 ──何を言っているのかよくわからんが、まあ、ともあれ、君の側でそういう方向ならこちらとしてもその腹積もりでいるから。是の非のは言わんが、退学するつもりなら、半期分の授業料をすみやかに納入したまえ。それから教授たちに謝りには来るもんだよ。
 谷岳氏は回線を切る直前に、ひとこと言い残した。
 ──やけになるんじゃないぞ。
 けっ、言いやがった。

 光が溢れ、空が青い。
 いまを幸福だと思うことは、過去を全肯定することが必要条件となるのだろう。その認識がある限り、何かひとつでも欠けていたらと思うことは、その対偶であり、不幸の実感なのか。
作品名:蒼天の下 作家名:中川 京人