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中川 京人
中川 京人
novelistID. 32501
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蒼天の下

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 友人たちは僕の書いたものを読んでくれなくなりました。というのは、草稿を渡した数日後にどうだったと聞いても、トンチンカンな感想しか返ってこなくなり、まともに読んではいないことがわかるのです。読んだけど内容を忘れた、などと言う者まで出て、そうなると僕も面白くなく、やはり方針を間違えたかもう少しインパクトのある方がよかったのかもと真剣に反省し、人生の再出発のごとき気概をもって新たに認めた原稿を、さりげなく彼女らの学食のプレートの下に敷いたり、バッグに詰め込んだり、無理やり小脇に抱えさせたり──持参した菓子折りなどを形式的に押し返してくる相手に大人たちはよくそうしていた──してみるものの、もらった側はその中身を知るや、まるで僕が砂糖と食塩を渡し間違えたかのような、もはや文物に対する扱いには似つかわしからぬ大仰な振る舞い、その被害者然たるはきはきした物言いが、作者の気持ちをさらに沈ませたのでした。
 今回の経験から、作文においては「決まり文句」というものが想像以上に重宝されていることを知りました。パソコンの黎明期から続いているアプリケーションソフトのひとつに、代筆を標榜するものがあります。決まり文句のサンプルを多数搭載しており、それらを組み合わせることで、ビジネスや冠婚葬祭、時節の挨拶などの用途に向けた最適な文章を出力するというものです。用途の絞込みや組み合わせの方法は、ソフトとの対話形式で行います。他人に読ませたくない文章を作るには重宝するでしょうが、僕には無縁のものでした。
 僕は副詞が苦手です、というより嫌いです。現在完了進行形で嫌いです。有害ですらあると思っています。副詞の有害性は、「文章にとって副詞はときに有害である」といった、再帰的な一文からも容易に体感できるものです。一切の使用を避けるとまではいきませんが、お行儀のよくない品詞として冷ややかに見ているのです。思うに副詞や慣用句は、作文を料理になぞらえてみれば、市販の醤油のようなものではないでしょうか。醤油であれ秘伝のたれであれ、過去の自分を含めた他人というものが作り置きをしておいたものであって、塩と胡椒だけを両脇において素材に挑もうとする料理人なら、手を伸ばすべきものではないと思っています。それらを使うと、以後その味に隷属するような気がしてならないのです。醤油が必要なら自分で作る。既製品に依存するのを嫌がる気持ちからです。清明な水と食塩と、それから自分で挽いた胡椒で、ともかく自分の味付けというものをしてみたい。僕は副詞を多用した濁ったスープを見てきました。おいしかったとしても、それに憧れることはできないのです。
 僕は自分のやりたいようにすることに決めました。醤油は水分を含みますので、そこから真水を取り出すことには意義があることです。とても時間のかかる作業でした。そうやって僕は文章を作る過程で成句や副詞が頭に浮かぶごとに、プチプチと潰れるものは潰しながら、別の文字に置き換えていきました。友人たちは僕の顔を見るなり逃げ回るようになりましたが、もうどうでもよくなりました。先に申しましたアルバイトをしている時間の他は、専らこの作業に費やしていたのでした。

 そこまで言ってからわたしは黙り込んだ。話が終わったことを示したのだが、軟着陸だったかどうかは怪しかった。出版の経緯や本の内容を尋ねられたら、守秘義務が課せられていて話せないと答えるつもりだったのだが、杞憂に終わった。
 室内が静まりかえったあとも、老教授は眼鏡をずり下げてこちらを見つめたままだったが、もしやこの人、目を開けたまま眠り込んでいるのではあるまいかと、思い始めた矢先のこと、皺だらけの頬が動いて、年寄りにしては甲高いしわがれ声が伝わってきた。
 ──では聞くが、その彼女ら、というのは具体的に誰のことなのかな。
 ちゃんと聞いていやがった。わたしの不得手な分野に振ってきたのでまずいとは思ったが、むろんそんな素振りは見せない。話を請け負うつもりをしたのだが、例によってマフィアがしゃしゃり出た。
 ──まあ、しかしまあ、どちらにしてもわれわれを納得させる理由にはならないわな。お父さん。お父さんは、どう思われますか。
 老教授の質問を遮ってくれたのはいいがこのマフィア、この期に及んで目の前の五十男の実態が理解できないのか、それとも居眠り半分だと勘違いして咎めるつもりだったのか、父の方に話を向けてしまった。
 ──ううん、まあ、そうですなあ。
 父は、過去の経験からすれば、わたしの話のこの長さだと、後半の三割ぐらいしか頭に残っていないだろうと想像できた。半世紀を生きてきて、スピーチでも、文章でも、人生においてでも、後半の何割かにこそ意味があると信じているのだ。
 ──皆さんにご迷惑をかけているのは事実ですが、ま、息子なりに苦手な分野を避けようとするんではなく、正面を向いて取り組んでいると。まあ学業に遅れがあるのもそれが原因であるなら、親としては徒に突き放すのではなく、見守る方向でと……。
 父の声を聞きながら、狭い額に横たわる濃い眉をさらにひそめ、言葉を重ねようとするマフィアをまさに制する形で、中華の謝さんが割って入った。
 ──ねえ中川さん。じつは我々の腹はすでに決まっているんですよ。もう理由がどうのこうのという段階じゃない。きょうのこの集まりがこのまま散会という形になれば、冒頭で谷岳君が言った処分は避けられません。息子さんは大学にはいられなくなります。ですからね……。
 臼井教授は、白衣を揺らして何度も大きく咳くと、しばらくして言葉を続けた。
 ──……で、もしそれを避けたいとお思いなら、あなたがたの方から積極的に申し出てほしいんですよ。我々は、別段それを期待しているわけではありませんが、例外的にどうしてもと仰るなら、息子さんが今後学生の本分を全うするという意欲と覚悟があるなら、この場でその誓いを立てられるなら、息子さんの放校処分について、教授会で反対意見を一本入れることに躊躇するばかりとは限りませんよと、こういうことです。
 ──あ、そういうことでしたらそれはもう、わかりましたです、はい。
 いったいに父はこういう場合、聞いた内容を理解したことと、内容について合意したということの違いをわかっていないようにも見える態度なのだ。ふたつ返事で請け負う様子を軽々しいと思ったのか、教授たちの席からは膿のような溜息が伝わってきた。が、この聴取を終わらせたいという意思に勝るものは、もはやなさそうだった。
 このときマフィアがわたしに視線を合わせた。マフィアの目が何かを語っている気がした。この人には、わたしと同い年くらいの息子がいるのではないかとの思いがよぎった。二年前のあの入学辞退者、あれがそうだったのか。いやいや、現実というやつは生半可ではない。じつはこのマフィアは医学科の教授を装ってはいるが、その正体は教授につきまとう患者であるのだが、事情があって重症化を避けるために周囲から好きにさせてもらっているのだ、としても別段おかしくはない。などと遊んでいるうちに、わたしの方にお鉢が回ってきた。裁判においては、被告はすなわち主役なのである。
作品名:蒼天の下 作家名:中川 京人