小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」
中川 京人
中川 京人
novelistID. 32501
新規ユーザー登録
E-MAIL
PASSWORD
次回から自動でログイン

 

作品詳細に戻る

 

蒼天の下

INDEX|13ページ/16ページ|

次のページ前のページ
 

 このような感覚はそれが初めてではなく、じつは、わたしは中学生のときにひとり、あるいはもうひとりの同級生に対して同様の感情を抱いたことがある。父親にこそ向けるべき意識、感情、欲望を、クラスメートに向けて抱え込んでいた。奇妙ではあるが、単純である。ある日あるとき(あ、俺、田中のことを、父親のように振舞うように求めていた。田中にたいして、父親を相手にするような態度を取っていた)と気づくのである。他にも数人の大人の男もこの対象になったように覚えているが、この意識は高校在学中に薄まり、二十歳を超えて体験することはなかったのだ。
 ──君は、ほとんど授業には出席してないということだが、その間いったい何をしていたのかね。
 他のことに興味はないが、そのことだけは確かめておこうという風の老教授が尋ねてきた。パイプのイラストのモデルの老人である。鼻眼鏡の上から、幾重も皺に囲まれた小振りのどんぐり眼が覗いてこちらを見据えている。母の勤める食品会社でアルバイトをしておりましたと即答すると、他の理由を想定していたらしい他の教授たちからは、ただちに怒りの雰囲気、聞こえよがしのため息や舌打ちが返ってきた。
 自己防衛の本能によるものなのか、見栄のためなのか、そこでわたしは咄嗟に「すみません、じつはそれだけではないのです」と言ってしまった。口から出まかせとはいえ、言葉にしてしまった上は、先方の「ほう、それは何かね」と聞き逃してはくれなかった重い空気の中で、それをどこかに軟着陸させる必要に迫られたのだった。

 はい、確かにバイトも忙しかったのですが、じつは僕、近々「醤油から水を取り出す」というタイトルの本を出版することになっていまして、その執筆のために時間を費やしていたのです。タイトルは「不不動産」でも「焚きつけにはなる原油」でも何でもよかったんですが、世の中には順番というものがあるので、いちおうアスキー順で。
 僕は小説を書くなどというのは初めての経験で、それどころか、小論文すらまともに書いたことがないので、自分で文章を生み出す行為、つまりモチベーションを高め、万年筆を握り、原稿用紙の升目にインクを垂らして文字を並べていく行為を、見よう見まねで続けたところで、とてもぎこちなく感じたものです。僕も人並みに、ひらがな、カタカナ、漢字、アラビア数字、それから獣のような声を出して表現する外国の言葉などは、程度の差こそあれ、ひと通りは習ってきました。ただ、真名と仮名を合わせて二千ばかり、それにいくつかの数字やアルファベットを準備して、さあ書くぞという段になって、ペンが動かないのです。これは他の方も多く経験なさっていることかもしれませんが、ひとつひとつの文字を個別に扱っていては、どう吟味してつないだところで、意味の通る文章にならないのです。いや、本当は努力すればできるのかも知れませんが、それは畢竟、単語を創作する行為にも類似しており、本を書きたいという一事のために、すべからく課される試練とは思えないのです。
 しかたがないので、僕は妥協して、単語と成句を用いることにしました。もとより文字を使おうという初めの決意も、いうなればページに文字を綴ったところの書籍という形式に背馳しないための妥協なのでありまして、元来物語創作の本意は語り聞かせることにあり、口唇や口腔内の音によって聞き手とともに満足を得るものではないかと思っています。文学とは文字という頸木があってこそ美しく咲いた花ということなのでしょうか。それはともかく、僕はそれらを用いると自分で決めたのですから文句は言いません。覚悟はできています。文字を組み合わせてまずまずの意味を持たせた、少なく見積もっても数十万にものぼる語彙というものと正対することになったのです。単語の部分集合というのか、ライブラリーというのか、ともかく人任せで提供してもらうとこれほどまでの数になるものかと、広辞苑第二版二千三百ページの任意の部分で割って開くたびに、ため息をついていたのでした。
 ところがそれ、もともとが部分集合ならば、その一部から選り抜いたものを集めたものもやはり部分集合であり、蛙の子は蛙、親の因果が子に報い、自己相似的な言葉のマンデルブロ集合ならば、部分は全部を装うことが可能なのであり、それはもうすぐ二十二歳になる僕の手による抽出によるものでも同様です。知っていることと知らないことの区分けを意識することで、それは僕の生活や読書歴を色濃く残すサブセットとなったわけです。この部分集合には僕の名前をつけてもいいはずです。これからさらに部分を選んで重複を許した組み替えを行えば文章の叩き台となるものは出来上がるはずだと思いました。これはいわば工房のラインから出てきたばかりの、荒削りで重く余熱のこもる半製品ですから、のちに磨かれるのか、それとも鞭で割られるのかは、その後の推敲によって決まります。その判定は、工場出荷の一秒前まで続けられるでしょう。文章を作るというのは、こうしたフローの繰り返しのことであろうと想像できたのです。
 ところが、うまくいきませんでした。うまくいかないときにも時間はかかってしまいます。もちろん文章は書けたのですが、誰も褒めません。ためしに友人に読んでもらったのですが、反応はひどいものでした。三人三様のはずがまさに三人三様、身体が痒くなるだの、誤読をしそうで読み辛いだの、同じような文章を書いてしまいそうで迷惑だのと、気味の悪い感想ばかりを並べ立てるのです。そして一様に、「もっと本を読め。読まずに書こうとするな。ていうか、読んでも書くな」との助言を寄越しました。僕も馬鹿ではありませんから、彼女たちの言っていることはわかります。おそらく彼女らは、自分たちがこれまで読んだことのあるような、ないしは読んだかも知れないと思えるような、そんなフレーズが含まれていない文章は読みにくいと感じるのです。読者は文字を目で追いながら、直前に目にした句が放つ雰囲気を、数十分の一秒というごく短い間にせよ保持しているため、次の語には、あまりに空気の違うものを持ってこられては戸惑うのでしょう。早い話がこういうことです。端折るべきところは端折れ。メタファーや比喩は彼我で合意済みのものを使え。「独断と偏見」も「氷山の一角」も「国民不在」も「ふれあい」も「(?)」も、使用に躊躇するなかれ。他、と。
作品名:蒼天の下 作家名:中川 京人