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中川 京人
中川 京人
novelistID. 32501
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蒼天の下

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 ちょっと待て。即退学とはどういうことか。いやいや即も近々も同じことじゃ。言葉のあやでごまかすな。息子はな、一生懸命勉強して実力で大学に入って、それはちょっとばかし疲れているだけなのだ。入学金は入れた。授業料も払った。全部ではないが、授業にも出ている。ものを習う学生だから当然だ。お金は払う一方で、誰からも一銭の銭とて受け取ったことはない。手が後ろに回ることをしでかしたわけでなし、ましてやどこぞの先生みたいに女子学生に手を出したこともない。いったいどういう理由があって、犯罪を犯した被告みたいに、高台に並ぶ高給取りの国家公務員からこんな風に詰問されなければならんのか、まるで合点がいかん。
 そのような反応を示す父親像だってありうるのだろうが、わたしの父に限れば、単に困っているのである。教授たちの居並ぶ長机から、わたしたち親子の心内を探る風が伝わり下りている。その斥候たちは決して彼らを満足させる報告をすることはなかろう。それが証拠に、教授たちは次第に谷岳氏やI先生の方に視線を移すようになっている。
 ──われわれとしても残念なのですが、特段の理由でもない限り、現状では止むを得んのです。……お父さんの方で、何か心当たりになるようなことはありませんか。
 集まった視線の束をどこかに移そうとするばかりに、しかし谷岳氏はわたしにではなく、父への質問という形で振り向けた。今般の集会の狙いが父へのいたぶりを兼ねていることが、いよいよ濃厚になってきた。
 ──ええ、まあ、高校を卒業するまではそうでもなかったんですが。
 父は語り出した。いったい何を言うつもりなのか。わたしの何を知っているのか。
 ──まあ、寝坊というのか、きちんと起きられない習慣がついてしまったようなんですな。宅浪というのが……よくなかったんですかね。もちろん本人に責任があるのですが、親としても目が足りなかったという点はあるのかもしれません。
 それは心当たりとは呼ばない。だが質問するほうが無茶であり、いじめに近かった。
「たとえば──」と中華の謝さんが両手の指を目の前で組みなおして初めて口を開いた。意外に軽々しく響く声だった。
 ──朝どうしても起きられないとか、知らず知らずのうちに昼と夜とが逆転した生活になってしまうといった人の中には、単なる怠け癖だけが原因とは言い切れないケースがあります。もしかすると脳内の疾患によるものかも知れないし、睡眠障害が原因でそうなる人もいる。あるいは他の精神生理学上の手当てを必要とする症例なのかもしれません。近年そういったケースの若者が増えているようで、重症化した例も聞いています。じつは本学に、その分野に造詣のある本橋という教授がおりますので、これを機会にご相談なさるのも一考に値すると思いますね。
 本橋という名前が出るや、エジソンもマフィアも、得心がゆくという表情で頷いている。 さて、この人たちの魂胆はわかっている。怠け癖などという素人判断を医学者という立場から喝破し、わたしの精神疾患をにおわすことで父に衝撃を与える腹積もりなのだ。父に学のないことを見抜き、先ほどから侮った態度を続けている。
 だが、父は動じない。父は言葉では動揺しないのである。少なくとも傍目にはそう見える。そんな父に試練を与えるつもりの博学たちの試みが、これよりことごとく挫折するであろうさまをわたしは思い描き、この集会の今後の密かな楽しみとした。
 ──ところで君は工学部への編入願いが出ているそうなのだが本当なのか。
 われら親子と教授たちとの間でいくらかやり取りがあったあと、I先生が唐突に話しかけてきた。じつはわたしがそのことを初めて谷岳氏に口にするまでには、学務係との間で、売り言葉に買い言葉といった、いわば事故的な経緯があったのだ。やはりここはI先生に最初に耳に入れておくべきだったと、I先生の立場のなさそうな顔を見て一瞬そう思ったのだが、いやまて。おそらく学務係から聞いていたのだろう、以前にもI先生から同じ質問をされて、そのときにちゃんと答えておいたではなかったのかと思い出し、改めてI先生の狡猾さを再確認した。まだ文書による正式なものではないとの谷岳氏のとりなしも、I先生を擁護するために使われているようだった。
 ──ああ、そのことですが。
 マフィアは、わたしが返事をする前にI先生から言葉を引き継ぐと、途中からわたしたち親子の方に向き直った。
 ──きのう臼井先生らと一緒に電子工学科の主任教授と、ちょっと話す機会がありましてね、(と話しながら中華の謝さんに顔を向けた)聞いてみたんですよ。うちにこれこれこういう学生がいるんだけど、あんたの方ではどうするねって。
 マフィアはよく聞けとばかりに、上半身を前かがみにした。
 ──先方はね、お話にならないと、こう言うんですな。つまりね……。
 ──結論から言うと。
 中華の謝さんこと臼井教授が、横から口を出した。助け舟ではなさそうだ。
 ──電子工学科ではいまのところ欠員は出ていないし、途中からの編入を受け入れる予定はないという話だった。正式な申請でないなら、正式な回答でもないんだが、実情はこの通りだ。編入うんぬんの話は、ないと思った方がいいな。
 話の腰を折られたマフィアは憤然としていた。そんな対応では、この突飛な申請に対する返事という意味しか持たないではないかと、考えたに違いない。少し空気をはさんでから、駄目押しのように、わざとらしく無表情で続けた。
 ──教授は笑ってましたよ。よりによって何でうちなんだとね。わかるかい。つまりあれだ、君みたいな人はいらんと、はっきりとそう言っているわけだ。
 言葉によるパフォーマンスに近い。この学生は傲慢な勘違いをしておる、ならばわかりやすく説明してくれよう、といった職業上の習慣から口をついて出たというよりも、教授側の心情の吐露を装いながらそのじつ、わたしたち父子が聞いたこともないような衝撃的な言葉を浴びせてみて、反応を見てみたいと思っているのだ。
 勘違い──。医学部から工学部への編入は入試ふた月前の志望学部変更のように安易にできるものと、わたしが高をくくっているとでもマフィアは案じたのだろう。この教授との間で、共有可能な認識がひとつあることを知った思いだった。
 このような認識の共有を、それまで父との間で持ったことは記憶にない。父は感情をほとんど出すことはなく、ドラマなどでは疑似体験のできる父と子の心の交流──わたしの側から言えば、父が考えていることを想像し、そういうわたしの感情に父も気づいているといったふうな──といったものを、わたしの物心つくころから思春期以後も、父との間で持ったことはなかったのだ。
 その日、マフィアとの間にそれを持った。おそらくマフィアが人として固有で持っているところの、彼の名札の付く父性のインスタンスを、わたしは感じ取ったように思った。それは「ああ、彼も人の父親だなあ」と思うのではなく、あるときに相手を自分の父親であるかのように錯覚してしまっていることに気づくことである。特段調べてはいないが、心理学上での適当な現象名が付けられていると思う。
作品名:蒼天の下 作家名:中川 京人