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中川 京人
中川 京人
novelistID. 32501
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蒼天の下

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 ──君の履修状況を見ていると、こののち学業を遂行させる上で重大な懸念を抱かざるを得ない、とする意見が専らだ。要するに君は教授たちから匙を投げられている恰好なんだな。ただ、君の方にも何か言い分があるかも知れないから、処分はそれを聞いてからにしようということになった。あくまで特例中の特例と理解してほしい。われわれとしては、相当の猶予期間を与えたつもりだし、君を大学に置いておく義務はないのだが、条件次第では、もういちどチャンスを与えようか、というわけだ。そこで、ひとつ場を設けて学年担任のI先生と学部教授にご出席いただいて、君に釈明の機会を与えることにする。君への審問みたいな形になるがやむを得ん。自分で撒いた種なんだからな。それから君だけじゃなくて、親御さんも一緒に来るようにとのことだ。どうしてか? どうしてかは知らん。聞きたいことでもあるんだろう。ご両親のどちらか……お父上がいいかな、お父さんに一緒に来てもらって、ともかく今の君の現状を皆の前で詳らかにしようじゃないか。君の進退を決める教授たちの前できちんと説明できるように、立派な言い訳を準備しておくんだな。お忙しい中を集まってもらうのだから、日時の方はこちらで決めさせてもらった。六月三日の午後二時に、親御さんとこちらに出向くように。それで場所なんだが、この学務課の建屋の北隣に離れみたいなのがあるのを知ってるか、知ってるな。そこの一階に小会議室があるから、そこに十分前に着いていなさい。玄関を開けといてやるから。私もそのころに行く。万一これに出なかったら、君には処分が下る方向だと覚悟してくれ。欠席の事由はいっさい聞かない。理由なしに所定の単位取得ができない者、という除籍条項があるので、怠学による除籍ということもあり得る。編入がどうのというのは教授たちが納得してからの話だ。当日はその話は出ないと思いたまえ。ついでに誤解のないように言っておくが、これは君を大学に残すためのセレモニーではないからな。君への沙汰を整える前にやっておく免責のための形式だと思ってもらって結構だ。以上、このことをご両親にちゃんと伝えるように。わかったね。時間には遅れるなよ、あとがないぞ。
 それだけを言い終わると、谷岳氏は余韻を許さずに電話を切った。通話の間中、わたしはほとんど相槌を打っているだけに終わった。話を聞きながら、じつは彼の狙いはわたしにではなく、学務係の部屋にいる他の誰かに漏れ聞かせることなのではないかという気がしていた。けだし、その年頃の人は、そういう効果を狙うものなのだ。
 六月三日はすぐにやってきた。父の五十一歳の誕生日の九日前にあたる。六月の晴れ間は力強く、蝉の声が聞こえてもおかしくないほど蒸し暑い日になった。わたしは父に有給を取ってもらい、ふたりで最寄りの駅から徒歩で大学に向かった。道中何か話したという記憶はない。いったいに我慢強い父だが、架橋のアスファルトに逃げ水が出るほどの陽気に加えて上着まで着込んでいるため、湿気には閉口している様子だ。薄手の綿パンにTシャツ一枚を垂らしているわたしの出で立ちとはえらく違う。日差しに顔をしかめ、刈り上げたこめかみに玉の汗を蓄えながらわたしの隣を恨めしげに歩く。
 生後六か月で実父を結核で失い、十七歳のときに近所の伝で電機メーカーへもぐり込んで以来、製造現場一本で通してきた父は、興味の持てない物事にはあまりこだわらない性分になった。そして父にとって、わたしの進路は興味の持てない分野のひとつなのだ。わたしがどういう方向に進もうが反対することはないし、貯めてきた学資の使い道にも口を挟んだことはない。それは息子本人の自主性を尊重しているからだと思っていたのだが、どうやら関心がないというのが本音のようだ。学問はないが典型的な技術系の人間で、母は器用貧乏という表現をした。よく言えば淡泊であり協力的。他方、特筆するほどの短所はないが、それらしきものは各方面に広く薄く、黒黴のように分布している。わたしに言わせれば、哲学や文学からの蠱惑には一向に動じることのない人々の一群に属している。母に言わせれば、第三者が納得するような離婚の理由を挙げにくい相手だとのことだ。デリカシーとは無縁の人間だと付け加えることも多い。焼けた砂を踏む父の足音をすぐ後ろに聞きながら、わたしは無言で歩いた。
 約束の一時五十分までには、半時間ほど時間が余ってしまいそうだった。わたしは目的の場所に直行せずにキャンパス内を案内でもしようかとも思ったのだが、それには逆に時間が足りないし、何より父がそんなことを望んでいないことに気づいてやめることにした。
 国道から分岐して付属病院の駐車場へ向かうアクセス道路が出ている。その脇の歩道から構内に入り、おおまかな見当をつけて足を向けたのだが、結果的に駅から学務係までの最短距離を結んだことになった。
 谷岳氏の言っていた建物はすぐにわかった。構内の他の建築物と比べると小ぢんまりした地味な二階建てで、あまり使われていない様子だった。上から見ると変形のL字型をしているのだろう。玄関口の小さな庇の陰で十五分ほど涼んでいると、三十代くらいの痩せた大柄の男が現れてわたしたちを確かめると、職名と苗字を名乗り、軽く頭を下げた。
 ──お話は伺っております。次長はいま手が離せないものでして、代わりに私が。
 父は、相手は大学の関係者なら誰でもいいらしく、聞き終わらないうちに、あ、どうもどうもこのたびは、などとしきりに頭を下げている。大市と名乗ったその職員は、それを適度にあしらい、持ってきた鍵で玄関を開けて中に入ると、どうぞとわたしたちを促して、自ら暗い廊下の先頭に立った。靴を脱ぎかけていた父は、土足のままで奥へ進むわたしたちを見て、ああそうだったかとつぶやき、遅れてついてきた。廃屋から立ち上るような、淡いが独特の臭気が大股で前を行く大市から漂ってくるようだった。わたしたちは狭い角を折れ、さるドアの前に立つと、大市の鍵で中に入った。
 直前に何の用途で使用したのか判然としない、雑然としてレイアウトだった。造作には意外にお金がかかっているとの印象を持った。照明は全体的に暗いが、事前に清掃でも入れたのか、廊下で感じたような黴臭いイメージはない。見たところ正規のドアは一か所だけで、一方向にだけにある窓に近い側にある。立派な奥の壁の近くには、扇型にごくゆるくカーブした巨大な長机が、やや高みにしつらえてあり、それから距離を置いて、それと対面する向きに事務用椅子が十脚ばかり配置されていた。わたしたち父子は、大市の指示で席の中ほどに腰をおろし、他の出席者を待った。エアコンは音ばかりでなかなか効いてこなかった。
作品名:蒼天の下 作家名:中川 京人