死にたいくんがついている
『繊細』というと聞こえは良いが、だいたいの他人は、弱いだの、考えすぎだの、被害者意識過剰だのしか、解釈しない。
そうは言っても、全人格が否定されたわけではなく、マイナス的な部分が理解されなかっただけのことだ。
そのマイナス的部分は、逆に好ましい一面を人の中に作り上げることもある。
彼女の場合、臆病さ、傷つきやすさが、真面目で優しく温かい彼女を育みもした。
もちろん、多くの人は、マイナスはマイナス、プラスはプラスとしか解釈しないけれど、ぼくは彼女と接して、それを知ったのだ。
死神だけではない、彼女を認めているのは。口に出してやったのは、死神だけかもしれないが。
そういえば、なぜぼくは、今まで彼女にそれを言ってやらなかったのだろう。
「どうしたの、照さん?」
考え込んでしまったぼくを、再び心配そうに伺うマスター。
そうだよ。誰も口にしてやらなかったのかもしれない。ぼくでさえもそうなんだ。
「マスター、ぼくの彼女が、『死にたいくん』に取り憑かれている。ぼくがちゃんと言ってやらなかったから、あんな男のところに行ってしまったんだ」
マスターは、彼女の影を思い出している。以前、一度だけ、ここにも連れてきたことがあった。
「恥ずかしがりやのお嬢さんだったね。寂しそうとも、言うのかな。
『死にたいくん』と名前をつけたのは、そのお嬢さんなの?新しい男にそんな名前つけるなんて、危ないね。照さん、やっぱり『死にたいくん』は、暗号だよ。すぐに追いかけなさい」
いつにない断言を受けるが早いか、ぼくは携帯のボタンを押していた。
つながってくれ。今もその男といるのか。騙されているんだ。そうではなかったら、キザ野郎の若さゆえの感傷と、彼女の哀しみが混同されている。
街の中の二人の姿が脳裏に浮かぶ。周りの賑わいから、二人だけが浮き上がり、例の寄り添う格好、ゆっくり、ゆっくり、スローモーションのように歩いていく。
なぜだ。映像がぶれ、不吉な色に染まるんだ。
大丈夫、今日の昼間だ、まだ間に合う。そんなドラマなようなこと、起こるものか。
つながってくれ。きみに言わなきゃいけないことがあるから!
呼び出し音が、「ガチャ」と、希望の音で途切れた。
『はい』
夜更けの真っ暗な待合室、夜間用受付の蛍光燈で、ようやく彼女のお母さんの姿を捉えた。
薄闇で、お母さんの顔はぼやけている。
走ると、コツコツコツコツ、心音と足音が競争しているみたいに響いた。両方のけたたましさをかき消したくて、ぼくは怒鳴った。
「どうですか!?」
「照和さん、よく来てくれたわね」
「…容体は?由利さんは?」
「携帯電話があの子のバッグの中で鳴るものだから、びっくりしたわ。あの子、人並みにこんなものを持っていたのね」
涙ぐむお母さんの肩を支えると、お母さんは少し冷静を取り戻して、
「手術は終わったの。傷口も縫ったのよ。でも薬も飲んでいて、出血も多かったし、頭も打っているかもしれないから、まだ何とも言えないと…」
それから、今彼女は、集中治療室で面会謝絶の絶対安静でいることを教えてくれた。
面会謝絶の札を前に、ぼくらは物も言わず腰掛けていた。
看護婦さんが親切で部屋の前の蛍光燈だけ点けてくれていたが、暗闇の廊下の中、ぼくらだけが浮き立っている様に、心細さを感じずにはいられなかった。
「自殺、ですか?」
お母さんは、こくんと肯いただけだった。分かっていながら、わざわざ聞く自分が情けない。
「昔から、心の弱い子で、誰かに何か一つ辛いことを言われると、それにひどくこだわって、ずっと引きずるような子でした。自分の過ちばかりを気にして、自分ばかりを悪者にするものだから、何かのせいにして心の中に逃げ場を作る、ということができない子でした。
普通の家で、当たり前に育てたつもりだったのに、どうしてこんなことになったのでしょう。どうして、あんな弱い子になってしまったのでしょう。もとからそう決まっていたのでしょうか。母親の弱いところばかりを受け継いでしまったのでしょうか。やはり、私が悪かったのでしょうか…」
お母さんの両拳に手を置いた。握るハンカチの涙の湿り気が温かくて、ぼくまで泣きそうになった。
「もとから弱い人間なんて、いませんよ。由利さんだって、本当はきっと…」
幽かな気配に、ふと廊下の向こうを見ると、暗闇の中、男が立っていた。胸に手を当てたあと、ゆっくり顔を両手で挟んだ。暗闇に浮き立つぼくらを見たくて、胸ポケットの眼鏡を取り出した仕種にも見えた。
眼鏡?
ピンときた―――サングラス!?
顔なんてもともと分からない。あの背格好、まさか。
男はさらに奥の闇に歩いていく。ぼくは反射的に追いかけた。
奴だ、昼間、彼女と一緒にいたキザ野郎だ!
とっつかまえてやる。今度のことに関わっているはずなんだ。そうだ。なぜ、おまえだけが、おめおめと。
暗闇の中、奴を追ったが一向に追いつかない。コツコツコツコツ、足音だけが響く。それをぼくの足音が追う。
足音だけを頼りにしていたあまり、しまいには身体いっぱいに反響して、追跡の方向を失いかけた。ぼくはぼくの中に取り残される不安にかられた。
だから、頭上から音が降り注ぐ変化には、かえって救われる思いだった。
足音は階段を昇る。どこまで昇る気だ。サングラスのくせして、ばかに軽快ではないか。
ついに屋上まで奴はたどり着いたらしく、鉄製の扉を開ける音が低くこだました。反響が鎮まれば、また暗闇きりだ。
バカ野郎め。行き止まりだ。それとも飛び降りるつもりか――やめろ。
月が出ていてくれ。彼女に何をしたか、問い詰めてやるんだ。
屋上の扉を開けると、大飛沫を全身に降りかぶった。
訳の分からないまま水を払って眺めた景色は、海だった。
曇天の空の下を果てなく拡がる。
波がぼくの足にぶつかり砕けた。灰色の泡が水辺を浮遊し、やってきたそのままに引かれていく。波音が低く重く繰り返し、こだまの尾を引いた。
呆気に捕らわれていたぼくを我に返したのは、濡れたジーンズの重みと、ゾクッと身体を貫く冷感だ。そうでもなかったら、延々と続く淀んだ光景と終わりのない波音に、誰かの存在を想像なんてしなかったはずだ。
そう。ぼくはこの冷感に感謝する。波間に隠れた二つ人間の影、ぼくは見つけたんだ。
彼女とサングラスの男は、寄り添い合って、ゆっくりと波のリズムにまま沖へ向かう。
彼女は昼の雑踏の中でしていた通りに男に頭をもたれ、男は彼女の肩をしっかり抱きかかえていた。
――ふざけるな!
飛沫を派手に上げ、ぼくは追いかけた。波が穏やかだとはいえ進みにくい水の中だ、苛立ちと怒りと焦りが急激につのり、二人に追いついたとき、ぼくの感情は爆発して飛び込むばかりに二人の間に割り込んだ。
しかし、彼女を奪い返すことはできなかった。代わりに男のサングラスが落ちて、水中に没した。
男の両眼には瞳がなかった。瞳のところを丸くくり貫かれていて、背景の灰色の海が覗いていた。荒れてきた波が、男の両眼から泡飛沫を飛ばした。
作品名:死にたいくんがついている 作家名:銀子