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死にたいくんがついている

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それをあいつがくれたというのか。それにしても、死ぬほど愛しているとは、ひどすぎる。

なるほど、それで「死神」か。ロマンチストの彼女らしい発想だ。「行ってもいいかな」―――あれは、別離の言葉だったんだ。

行き先は、あの世なんかではなく、あの男のところ。行ってもいいかな、去ってもいいかな、あなたのもとを。

彼女の言葉が分からない。もっと直接的に言ってくれよ。

それとも、心中でもするつもりなのか。「死にたいくん」なんて、ふざけている。

「大丈夫?」

マスターが驚いた顔をして、ぼくの顔を覗き込んでいた。

このマスターとは、学生時代からの長い知り合いだ。

格好つけ場所を探してふらふら入り込んできた十代のぼくを、厭な顔一つせずに迎え入れ、酒についてのうんちくを教えてくれた。人好きされる人柄らしく、一人で来ているお客には、酒はもちろんのこと、この人と話をしたくて来ている人が少なくないようだった。

ある日、とても気が滅入り、静かに酒が飲みたくなって、立ち寄ったことがある。マスターはいつもの陽気な笑顔で迎えてくれたが、ぼくの様子が違うことにすぐ気がついて、静かに注文だけを聞いた。

ぼくは、飲み慣れない強い酒の名前を言った。

それはなかなか手に入りにくい、マスター秘蔵の酒だった。結婚だとか、子供が生まれたとかの、人生で特別なことがあったお客や、本当にその酒の価値が解る、酒にふさわしい人に振る舞われていた。ぼくなんかが望める酒ではない。

でも、そのときのぼくは残酷な気分になっていて、優しいマスターを困らせてやりたくなったんだ。また、この小さな不幸を解消できるのは、その酒しかないとも思い込んでしまった。ますます酒を飲む資格なんてない。

マスターは店の奥に消えた。他の安い酒ではごまかされないぞと意気込んでいたが、マスターが持ってきたのは、本物だった。

「あなたの選択は正しい。安酒では、いたずらに流し込むだけで、身体まで辛くしてしまう。悩み、哀しみ、屈辱は、洗い流すのも良いけれど、どうせなら、 良い酒と一緒にちびちびと身体の内に入れてあげるといい。良い酒は心を柔らかくしてくれるから、耐えられないはずの傷も、すんなり受け入れさせてくれるんだ。そして、明日を踏み出す勇気をくれる」

あのときの酒の味を、ぼくは忘れない。以来、この店は、格好つけ場所なんかではない、ぼくのスペシャルとなった。

わがままだってことは解っていた。咎められても仕方がない。でも、もしあのときマスターに咎められていたら、人生でまた失敗してしまったことに、ぼくは自分を責めて、さらにめげてしまっていただろう。マスターはあえてぼくを肯定してくれた。それが何よりも嬉しかった。

今にいたっても、マスターの過去をぼくはよく知らない。「平凡なサラリーマンでしたよ。平凡以下かな。脱サラの口でね」と微笑んで言うだけだ。

その通りだとしても、いろいろな「思い」を、「多く」経験してきた人なのだと思う。彼のさりげない、それでいて心を尽くしたもてなしを見ていると、そんな風に考える。

今日も、店に入ってきたぼくを見るなり、彼は扱い方を心得えていた。物思いに耽るぼくの邪魔はせず、ぼくに寂しさを感じさせない距離で、いつも通りグラスを磨いたり、他の客の相手をしたりしていた。

しかし、今日だけは思案中の客に声をかけた。というより、かけざるをえなかったらしい。

「どうしたの、マスター?」

「いや、照さんらしくもない、『死にたい』なんて言うから…」

何を言っているのかとぼくこそ戸惑ったが、すぐに合点がいって苦笑した。

「違うよ、マスター。『死にたいくん』と言ったんだ」

頭の中の呟きが、つい現実の声になっていたらしい。

マスターはほっとして、顔をほころばせた。

「何、それは?」

「死神の名前らしいよ。知り合いが言っていた」

「へえ。死神と言えば、黒いマントの中身は髑髏で、大鎌振り回しているイメージが強いけれど、一応名前を持っているんだねえ、なかなかかわいらしい」

「うん。サングラスなんかかけて、おしゃれだったよ。あんなのが死神なら、バカな女は喜んで死んじゃいそうだ」

「それはまずい。うちの娘は頭が軽いから、注意しないと」

マスターの娘さんなら大丈夫だよ、と言うと、いや、かわいそうに、私に似なかったんだよ、とがっかりしてみせるから、吹き出してしまった。

「昨今は、死神にもいろんなのがいるのかもねえ。もし、吉永小百合みたいな死神だったら、考えちゃうもんなあ」

マスター、娘さんは、十分あんたに似ているよ、と教えてあげると、いや、私が感化されてしまったのだと、まじめな顔して言うから、またおかしい。

「いろんな死があるから、いろんな死神がいてもおかしくないよね」

「交通事故死専門とか、病死専門とか?」

「そう。人間社会と一緒で、昨今はさらに分業化が進み、交通事故でも、トラックか軽自動車か、轢いた車種によってお迎え役が違うんだよ。

病死の場合は、癌か心臓病かといった区別だろうね。いろんな合併症を起こして死に至った場合は、死神同士で、どちらの専門か、けんかにもなる。

そんな風に考えれば、世の中に無数の死があることも、納得できるだろう?」

「マスター、ちょっと違うよ。それではいろんな死に方があるから、いろんな死神がいることになっちゃうよ。いろんな死神がいるから、いろんな死に方があるんだろう?自分好みの死に方をしそうな奴を、いつも探して狙っているんだ」

「あ、そうか。残念。こっちがいくら『吉永小百合様!』と願っても、あっちが選ぶのか」

マスターは、本気で悔しがっている。

「じゃ、あの代議士も死神に取り憑かれていたのかな。汚職事件に関わる自殺を専門にしている死神に」

と、時宜ネタを取り上げられたから、ぼくも件の人物のことを少し考えた。

「いずれにしても、死神のせいばかりではない。取り憑かれる原因は、本人にもあったんだからね」

自分で言っておきながら、ぼくははっとした。死神に取り憑かれる原因―――。

もし、本当に死神がいたとしたら、確かにぼくの恋人は、狙われやすくはあるだろう。

頭の軽い女ではないが、深く考えがちだからこそ、素敵な死神に、優しく手を差し伸ばされ、この世の全ての哀しみから解放してあげると言われたら、ついて行ってしまうような危うさが漂っている。

死神だけが、彼女の存在を認め、評価し、こんなことまで言う―――「君を死ぬほど愛している」。何しろそれが専門だから、上手いんだ。

彼女は、ぼくといる以外の日常をあまり語らなかった。

ぽつぽつと、言葉になろうとするときもあったけれど、よほど苦しい作業のようで、たいていはうやむやになる。何かを堪えているのか、吐き出せない苛立ちに消化不良を起こしているのか、そんなときの彼女は唇を噛み締めて黙ってしまうから、無理に聞き出すのもかわいそうな気がして、ぼくもうやむやにした。

だから、ぼくは、彼女が一体何をあんなに苦しみ、哀しんでいたかは、具体的に多くは知らない。

ただ、彼女の性格上、ぼくみたいなお気楽な人間には理解できない苦労があるのだろう。
作品名:死にたいくんがついている 作家名:銀子