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死にたいくんがついている

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彼女の両眼も同じだった。カラの瞳から飛び出た飛沫が、まるで涙みたいに頬に伝わった。

どこを見ているのかは分からない。きっとどこも見ていない。彼女の心は、この灰色の海に飲み込まれてしまったんだ。

「何でだよ。どうしてだよ。なぜそこまで思い込んだんだ。何がそんなに辛かったんだ。辛いのも、哀しいのも、おまえ一人だけじゃない。みんな、人は誰も同じで…何で、自分一人が弱いなんて思い込んだんだ!?」

荒れ出した波がいっせいにぼくめがけて飛沫を上げ、言葉を打ち消した。

死神が彼女の頬の滴を手で拭ってやっている。

「さあ、行こう。死ぬほど君を愛している」

盲目的にしなだれかかる彼女の肩を再び抱き、死神は沖へ向かう。

まるで磁石の斥力だ。波がぼくを押し止め、先に進ませない。そのくせ彼らは受け入れられて、水の中に身体を沈めていく。

開く距離にじたばたしても、同じ灰色に濡れそぼっても、彼らの行く方にぼくは決して踏み込めない。波飛沫の合間に、彼らを見送るしかできない。

「連れて行くな!おまえの獲物じゃない!彼女には、ぼくがいる!彼女は独りではない!

もう二人とも頭しか見えない。さらに悪いことに、彼らの向こうに大きな津波が現れた。世界ほどもある巨大な怪物が、口を開けて飲み込もうとしているようにも見えた。

冗談じゃない。逃げてくれ!

しかし、津波はごわごわ大音響を伴い、あえて真実を知らしめようとしているみたいに山をそびえた。

間に合わないのか。だめだ。言うんだ。決めたんだ。

届いてくれ!

「『死ぬほど』なんて言葉はくそったれだ!由利、一緒に生きよう!『生きるほど』愛しているんだ!」

あっという間に、世界中が淀みの渦に埋没した。

彼女の頭上で波が崩れたのを最後の光景に、ぼくは波の中、息もできず押し流され、隔てられたのだ。


涙で面会謝絶の文字がぼやけて、すぐには読み取れなかった。

荒波の力か、死神の力か、彼女の願望の強さか、そしてぼくの非力ゆえか、ぼくは灰色の海を渡りきることができなかった。

彼女は、行ってしまった。死神と一緒に。

蛍光燈は消え、病室はもはや孤立していない。曇天の薄明るい朝が、世界中に均等に拡がる。

静かだ。波音は聞こえない。彼女にも、もう聞こえない。

ぼくは泣いた。声を上げて泣いた。これも、彼女には聞こえないんだ。

面会謝絶の札が揺れてドアが開き、赤い瞳のお母さんが現れた。彼女に似た気配、懐かしさに、よけいに泣けた。そう、この人も娘の旅立ちを知ったんだ。

真向かう哀しさにいたたまれなくて、逃げ出そうとした背中に、お母さんの涙声がはじけた。

「泣かないで。会ってやってください。あなたを呼んでいるの。大丈夫。目が覚めたのよ」

これこそ夢のような気がした。涙が頬を伝い、唇に落ち、塩辛さが口いっぱいに広がった。

彼女は目を閉じていて、ぼくにはまだ信じられなかった。

上から覗き込む気配にぼくだと気づいたのだろう、唇がゆっくり開き、息を吸い込んだ。

「昔から、死にたい、死にたい、と思うと…呟くと、とても気持ちが楽になったの。この世で、私を助けてくれる、たった一つの呪文のようで。どんな哀しみも孤独も屈辱も、清算してくれる切り札だった。

いつも、私は私を終わらせてしまいたかった。死だけが、私にとってハッピーエンドだったの」

彼女の目元に手を当てた。その冷たさに自分の体温だけが意識され、焦りに震えた。この瞬間、また失わないと誰が言い切れる。

瞳のくり貫かれた中に、灰色の波のうねりが拡がっていたら、ぼくは死者からの伝言を聞いていることになるんだ。

「目を、開けてくれ」

指に生暖かい滴りを感じた。ぼくの五指に塞き止められながらも、あとからあとから温水は流れ、現れた瞳にぼくの姿が映ったとき、一段と涙腺から溢れた。

「なのに、あなたがいけない。あんなこと、言うんだもの。私にとって…死よりもずっと難しいことなのに。難しくて、上手くできなくて、だから憧れて…つい、振り返ってしまった。振り返ってしまったの…」

ぼくは彼女を抱き締めた。津波が崩れる瞬間、彼女の横顔を見た気がしたのは、ぼくの願望ではなかった。

唇を噛み締め、彼女はすすり泣く。生きることへの希望が、自分の中に一片でもあったことに、悔やみ、戸惑い、泣きじゃくる。

彼女の中の哀しみは消えてはいない。これからも、生きるほどに彼女は傷つき、灰色の冬の海を思うだろう。

何も変わらない。

ただ、延々続く哀しみの光景の中で、『生きることそのもの』が、救いになるのだとしたら。

生きることそのもののために、人は互いに声を求め、手を伸ばし合っている。

ぼくの手は彼女に。そして、彼女の手はぼくに。

耳は、いつも温もりを聞いていたい。

生きていく陰りの中から、絶えず死神が見つめている。

冷たい視線を背にしながら、一方でぼくらは見つめる、生きるということ。

だから、声を聞かせて。その手を、放すな。



<おわり>


〇あとがき

20代前半の頃に書いた話です。

死の美化がすさまじい。

あまりにも拙い。幼い。

しかし、その純粋さにおいては、もう今の私には書けない。

今回、この話は「作品」ではなく、「思い出」として載せています。

そのため、批判・苦言はご勘弁を。言われても、思い出なので、凍結でございます。

作品名:死にたいくんがついている 作家名:銀子