死にたいくんがついている
「“死にたいくん”て、知ってる?」
射精した直後の眠気に捕らわれて、彼女の問いかけにぼくは応えることができなかった。
暗闇のか細い声やぼんやりした影は、ドラマで見た気もするシチュエーションだ。映像は、頭の隅で融けて、眠気の渦に吸い込まれていく。
セックスのあとのまどろみに、ぼくは酔っていた。おそらく彼女もそのせいで、他愛もない夢物語を語り出したのだと思った。
「死にたいくんは、人間の姿とそう変わらないの。
ただ、瞳が灰色なの。あれは冬の海の色ね。曇天の空の下、風もたいして強くない、波の平穏な、音もくぐもって聴こえる、あの景色。波音は絶え間ないのに、時が止まっているように感じる。それとも、永遠に続くからこそ、思うのかな」
冬の海に、ぼくは彼女のようなイメージを持っていない。そもそも海は夏の風物で、冬と聞いてもぴんとこない。
冬の海といえば、カラオケ演歌の中でくらいしか知らない、とぼんやり思ったところで、自分のお気楽な性格に苦笑した。
彼女のおとぎばなしは続く。
「死にたいくんは、死神なの。でも、人を進んで死に追い遣ったりはしない。彼は待っているの。死にたいと思っている人間の傍らにいて、ただじっと待っている。そのときが来たら、その人の望み通り、連れていくだけ。優しい死神。
そう。彼は優しいよ。灰色の瞳がはじめは恐ろしかったけれど、ゆっくりと惹かれていった。見つめていると、不思議と落ち着いて、恐くなくなる。思考もぼんやりとしてくる、それが心地良いの。
ずっとあたしのそばにいたのよ。物心つく頃から、知っていた気がする。哀しいことがある度、存在を強く感じた。だんだん姿もはっきり見えるようになって、灰色の瞳で微笑んで、ある日あたしに言ったの―――『君を死ぬほど愛している』。
嬉しかった。あたし、彼を待っていた気がする」
彼女はありったけの息を吸い込んで、長く長く吐息の尾を伸ばした。眠りに就く間際の安息だと思い、恋人を置いてきぼりせずに眠れる安堵から、ぼくは積極的に眠気の渦に巻き込まれた。
彼女が言った。
「あたし、行ってもいいかな?」。
頭の中でぼんやり応えた。そんな奴と行くなよ。ここにいろ。ぼくのそばに。
死ぬほど愛しているだって?そりゃすごい。確かにぼくには言えないよ。バカバカしすぎる。
おとぎばなしを使って、ぼくにも同じ言葉を期待しているのか?どのみちそんな馬鹿げた口説き方はしないよ。ぼくだったら、ぼくだったら…。
ちゃんと口にして言ってやれなかったと思う。もはや眠気の渦の奥の奥、おとぎばなしも彼女の影も裸の自分すらも、世界からブラックアウトだ。
言えなかった言葉だけが少しつきまとったが、やがてぼくは意識を失った。
ぼくと付き合い出しから、ようやく彼女は携帯電話を持ったらしい。このご時世に珍しいとは思ったが、人嫌いな彼女らしいとも納得できる。
その携帯電話を今日はどんなに鳴らしても、彼女につながらなかった。諦めて、ぼくは一人街に出た。
よくもここまで暇人が集まったものだと唸るほど、人でごったがえしの日曜日。実際は、ほとんどが平日忙しい人ばかりで、休日こそ日々失っているものを取り返そう、かなえようと、やって来ているのだ。
茶髪の若い奴と、家族の買い物の荷物持ちをしている中年の男の肩と肩がぶつかり、軽い憎しみが交換される。
女子高生たちのスカートの短さに振り返らずにはいられないおばさん。対して女子高生たちは、若くない女など眼中にもなく、無邪気におしゃれと街の賑わいを楽しんでいる。
ぼくの恋人も、こんな風に少しは強くなれれば良いんだが。
彼女の高校時代はどうだったんだろう。本ばかり読んでいられた頃は良いけれど、社会に出たらそうもいかないよ。
カップルは必ず手をつないでいる。
独り身のときは鼻につく光景だが、相手がいるときは、別のことを思う。彼女のこと、そして彼女と手をつないでいるときの、自分の顔。あんなにやけ面しているのかと思うと、情けないやら、誇らしいやら。
ぼくぐらいの歳のカップルは、さすがに落ち着いていると思ったら、それもそのはず、視線を落とせば、彼らの間に小さな子供。一見、恋人同士にも見える二人の空気に子供がすっぽりおさまっている光景が、くすぐったい。
しかし、にやけていられたのは、そこまでだ。はじめ、彼女のことを連想していたせいの錯覚だと思ったが、親子連れの前を歩くのは、まぎれもなく彼女で、コートとマフラーの色の組み合わせまで、いつも通りだった。
ただ、その隣にいるのはぼくではなく、別の男だ。
彼女の手は、男のコートのポケットの中で、男の手とつながれていた。うっとりという形容詞そのまま頭を男の肩に寄せ、身体を預けている。
男のサングラスの横顔が、彼女の顔をしょっちゅう覗き込む。そのたびに彼女は男を見つめ、幸福そうに微笑んだ。
ぼくは何かの魔法にかけられたかのように、茫然自失でその場から動けなかった。
学生時代からの馴染みのバーに足が向いていた。
居酒屋で若い店員に体育会ノリの注文取りをされるのは嫌だったし、はじめての店を開拓する気分にもなれなかった。
ショックだった。彼女は、ぼくにはあんな風に甘えたことはない。人前で誰はばかることもなく幸福を漂わせ、完全に二人だけの世界だ。
あの男、誰なんだよ。サングラス、流行の型とはいえ、ガキの趣味。あんな軽薄そうな奴、彼女は本当に好きなのか。
そんなにいい奴なのか。このぼくよりも?
浮気のできる女ではない。ぼくよりあいつを選ぶのか。ぼくよりもあいつが好きなのか。
何度も何度も街での二人の光景がフラッシュバックした。なぜ辛いことに限って、わざと脳みそにこびりつけたみたいに再生され、繰り替えされるんだ。
数日前までは、彼女とはセックスだってしていた。他に男がいるような素振りは見せなかった。変わったところも特になく、いつも通り微笑みかけてくれていたではないか。
平凡な女。素直なぐらいが取り得で、不器用さと生真面目さゆえに少し物事を悪い方に考えてしまう癖がある。驚くくらい脆いときもあった。
それでも、ぼくといるとほっとした顔を見せたから、ぼくは自分を、傷つきやすい彼女がようやく巡り合えた心を許せる男なのだと思い込んでいた。自惚れだったのか。
あの男の方が、ずっとかばってくれるとでも思ったのか。確かにキザそうだ。若いだけに自分に酔って、美味しい台詞も出るだろう。
そこで思い出した。『死ぬほど君を愛している』―――そうか、あいつだったのか。
ばかやろう。そんなこと言える奴、どうかしている、おかしいよ。
ぼくは、彼女を死ぬほどは愛していないかもしれない。でも、大切には思っていた。ずっと一緒に行けたらな、と考えていた。弱いところも、傷つきやすいところも、全部含めて好きだったから。
それを言葉に出したことはない。言わなくても、通じていると思っていた。それは願いにも似た男の勝手な想像で、彼女は言葉を必要としていたのだろうか。
日々の哀しみを十分に補うほどのいたわりを求めていた節が、確かにあったけれど。
射精した直後の眠気に捕らわれて、彼女の問いかけにぼくは応えることができなかった。
暗闇のか細い声やぼんやりした影は、ドラマで見た気もするシチュエーションだ。映像は、頭の隅で融けて、眠気の渦に吸い込まれていく。
セックスのあとのまどろみに、ぼくは酔っていた。おそらく彼女もそのせいで、他愛もない夢物語を語り出したのだと思った。
「死にたいくんは、人間の姿とそう変わらないの。
ただ、瞳が灰色なの。あれは冬の海の色ね。曇天の空の下、風もたいして強くない、波の平穏な、音もくぐもって聴こえる、あの景色。波音は絶え間ないのに、時が止まっているように感じる。それとも、永遠に続くからこそ、思うのかな」
冬の海に、ぼくは彼女のようなイメージを持っていない。そもそも海は夏の風物で、冬と聞いてもぴんとこない。
冬の海といえば、カラオケ演歌の中でくらいしか知らない、とぼんやり思ったところで、自分のお気楽な性格に苦笑した。
彼女のおとぎばなしは続く。
「死にたいくんは、死神なの。でも、人を進んで死に追い遣ったりはしない。彼は待っているの。死にたいと思っている人間の傍らにいて、ただじっと待っている。そのときが来たら、その人の望み通り、連れていくだけ。優しい死神。
そう。彼は優しいよ。灰色の瞳がはじめは恐ろしかったけれど、ゆっくりと惹かれていった。見つめていると、不思議と落ち着いて、恐くなくなる。思考もぼんやりとしてくる、それが心地良いの。
ずっとあたしのそばにいたのよ。物心つく頃から、知っていた気がする。哀しいことがある度、存在を強く感じた。だんだん姿もはっきり見えるようになって、灰色の瞳で微笑んで、ある日あたしに言ったの―――『君を死ぬほど愛している』。
嬉しかった。あたし、彼を待っていた気がする」
彼女はありったけの息を吸い込んで、長く長く吐息の尾を伸ばした。眠りに就く間際の安息だと思い、恋人を置いてきぼりせずに眠れる安堵から、ぼくは積極的に眠気の渦に巻き込まれた。
彼女が言った。
「あたし、行ってもいいかな?」。
頭の中でぼんやり応えた。そんな奴と行くなよ。ここにいろ。ぼくのそばに。
死ぬほど愛しているだって?そりゃすごい。確かにぼくには言えないよ。バカバカしすぎる。
おとぎばなしを使って、ぼくにも同じ言葉を期待しているのか?どのみちそんな馬鹿げた口説き方はしないよ。ぼくだったら、ぼくだったら…。
ちゃんと口にして言ってやれなかったと思う。もはや眠気の渦の奥の奥、おとぎばなしも彼女の影も裸の自分すらも、世界からブラックアウトだ。
言えなかった言葉だけが少しつきまとったが、やがてぼくは意識を失った。
ぼくと付き合い出しから、ようやく彼女は携帯電話を持ったらしい。このご時世に珍しいとは思ったが、人嫌いな彼女らしいとも納得できる。
その携帯電話を今日はどんなに鳴らしても、彼女につながらなかった。諦めて、ぼくは一人街に出た。
よくもここまで暇人が集まったものだと唸るほど、人でごったがえしの日曜日。実際は、ほとんどが平日忙しい人ばかりで、休日こそ日々失っているものを取り返そう、かなえようと、やって来ているのだ。
茶髪の若い奴と、家族の買い物の荷物持ちをしている中年の男の肩と肩がぶつかり、軽い憎しみが交換される。
女子高生たちのスカートの短さに振り返らずにはいられないおばさん。対して女子高生たちは、若くない女など眼中にもなく、無邪気におしゃれと街の賑わいを楽しんでいる。
ぼくの恋人も、こんな風に少しは強くなれれば良いんだが。
彼女の高校時代はどうだったんだろう。本ばかり読んでいられた頃は良いけれど、社会に出たらそうもいかないよ。
カップルは必ず手をつないでいる。
独り身のときは鼻につく光景だが、相手がいるときは、別のことを思う。彼女のこと、そして彼女と手をつないでいるときの、自分の顔。あんなにやけ面しているのかと思うと、情けないやら、誇らしいやら。
ぼくぐらいの歳のカップルは、さすがに落ち着いていると思ったら、それもそのはず、視線を落とせば、彼らの間に小さな子供。一見、恋人同士にも見える二人の空気に子供がすっぽりおさまっている光景が、くすぐったい。
しかし、にやけていられたのは、そこまでだ。はじめ、彼女のことを連想していたせいの錯覚だと思ったが、親子連れの前を歩くのは、まぎれもなく彼女で、コートとマフラーの色の組み合わせまで、いつも通りだった。
ただ、その隣にいるのはぼくではなく、別の男だ。
彼女の手は、男のコートのポケットの中で、男の手とつながれていた。うっとりという形容詞そのまま頭を男の肩に寄せ、身体を預けている。
男のサングラスの横顔が、彼女の顔をしょっちゅう覗き込む。そのたびに彼女は男を見つめ、幸福そうに微笑んだ。
ぼくは何かの魔法にかけられたかのように、茫然自失でその場から動けなかった。
学生時代からの馴染みのバーに足が向いていた。
居酒屋で若い店員に体育会ノリの注文取りをされるのは嫌だったし、はじめての店を開拓する気分にもなれなかった。
ショックだった。彼女は、ぼくにはあんな風に甘えたことはない。人前で誰はばかることもなく幸福を漂わせ、完全に二人だけの世界だ。
あの男、誰なんだよ。サングラス、流行の型とはいえ、ガキの趣味。あんな軽薄そうな奴、彼女は本当に好きなのか。
そんなにいい奴なのか。このぼくよりも?
浮気のできる女ではない。ぼくよりあいつを選ぶのか。ぼくよりもあいつが好きなのか。
何度も何度も街での二人の光景がフラッシュバックした。なぜ辛いことに限って、わざと脳みそにこびりつけたみたいに再生され、繰り替えされるんだ。
数日前までは、彼女とはセックスだってしていた。他に男がいるような素振りは見せなかった。変わったところも特になく、いつも通り微笑みかけてくれていたではないか。
平凡な女。素直なぐらいが取り得で、不器用さと生真面目さゆえに少し物事を悪い方に考えてしまう癖がある。驚くくらい脆いときもあった。
それでも、ぼくといるとほっとした顔を見せたから、ぼくは自分を、傷つきやすい彼女がようやく巡り合えた心を許せる男なのだと思い込んでいた。自惚れだったのか。
あの男の方が、ずっとかばってくれるとでも思ったのか。確かにキザそうだ。若いだけに自分に酔って、美味しい台詞も出るだろう。
そこで思い出した。『死ぬほど君を愛している』―――そうか、あいつだったのか。
ばかやろう。そんなこと言える奴、どうかしている、おかしいよ。
ぼくは、彼女を死ぬほどは愛していないかもしれない。でも、大切には思っていた。ずっと一緒に行けたらな、と考えていた。弱いところも、傷つきやすいところも、全部含めて好きだったから。
それを言葉に出したことはない。言わなくても、通じていると思っていた。それは願いにも似た男の勝手な想像で、彼女は言葉を必要としていたのだろうか。
日々の哀しみを十分に補うほどのいたわりを求めていた節が、確かにあったけれど。
作品名:死にたいくんがついている 作家名:銀子