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0のつく誕生日

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帰ってきた――老女は口の中で呟いた。帰ってきてしまった。

老女を突き動かしていたすべての情熱が引いていった。情熱の逃げ足に音はなかったが、胸の温度が冷めていく感覚が、老女にそれを教えた。追いかけても情熱は温度を連れて消えていくばかりだ。彼女が骨の中に残していた最後の情熱。だが、行ってしまった。

彼女の胸の内が平静に戻る頃、ホストが元の場所に現れた。一時間前と寸分違わぬその姿は、時間旅行の完了を示していた。

「お帰りなさい」

情熱が去っても、肉体の胸の鼓動はおさまっていなかったので、老女の声は少し震えた。ホストは不思議そうに目をしばたたせたが、老女はそれを気取られまいと、くるっと背を向けてしまった。

「疲れたでしょう、お茶をいれましょう。さあ、くつろいでちょうだい。そして、三十歳の私とどんな風に過ごしたか教えて」

ホストは、すべてを包み隠さず話した。

出会ったはじめ、三十歳の彼女にはかなり用心されたが、老女が教えてくれた子供の名前を告げたところ、たちまち信用してくれたこと、それから二人で彼女の憧れるブティックへ行き、彼女にワンピースを選んだこと、そのワンピースを着て、船上ディナーへ出かけたこと、花火を見たこと、渡した薔薇は花火には見劣りするはずなのに彼女は十分喜んでくれたことなどを。

女同士ではなかなか入りづらいからと、屋台のおでん屋でコップ酒を飲んだことにいたっては、感情の薄いはずの彼にしては、たまらなくおかしそうに笑って話した。

ホストは、三十歳の彼女との夜のこともきちんと話した。巨大な観覧車の見えるホテルのスイートルームで、彼女とホストは愛を交わした。愛し合うことに臆病な彼女は、抱くと壊れもののように震えたのでホストも戸惑ったらしいが、ホストの優しさが通じたのだろう、彼女は彼を信じて、自分を明け渡した。

朝日に照らされる彼女の横顔は、幸福そうに見えたのだが…とホストは言ったが、そればかりは本人ではない限り分かりませんねと、慎ましく付け加えた。

「大丈夫よ。きっと私は幸福だったわ」

もしやそのときの記憶があるのでは…と、一瞬ホストは思ったが、すぐに時間のパラドックスの修正を思い出して、言葉を引っ込めた。そう、例外などあるはずないのに、それを口にするのは、残酷すぎる。

「ありがとう。記憶にはないけれど、私、素敵な誕生日を過ごせたのね。それも、生涯で一番素敵な誕生日だったに違いないわ。最高の夢。私の夢はかなったのだわ。それで十分よ」

老女は、ホストの話を始終視線を落としたまま聞いていて、お礼の言葉すらもどこかぎこちない。バイオロイドのホストの耳にも、満ち足りた響きとしては届かなかった。

「ご満足いただけたのでしょうか?」

「もちろんよ」と言いつつも、老女は次の言葉が見つからない。ホストの心配そうな気配が伝わってくる。顔を上げると、美しい青年が、心持ち青い顔で自分を見つめている。

「一つ聞いていい?」

ホストにほだされて、一つだけ、老女は素直な思いを口にしてみようと思った。

「何なりと」

「三十歳の私は、奇麗だった?あなたは、一日私と過ごして、三十歳の私に恋をしなかったのかしら?」

しかし、老女はたちまち後悔する。皺の深い手で口を押さえ、言ってしまったことをなかったことにしようと、首を振った。

「今の質問は忘れて。あなたはプロだもの、一々お客に本気になるわけもないわね。ましてやバイオロイドで」

と言いかけたときだ。ホストから意外な言葉が飛び出した。

「恋しましたよ。好きになりました」

老女は一瞬呆けたが、人間に従順なバイオロイドの性質をすぐに思い出した。

「ありがとう。嘘でもうれしいわ」

「ぼくは、この世に造られて以来、はじめて人間になりたいと思った。人間の男であったなら、もっと彼女の気持ちを理解し、彼女の孤独を肌で感じて、ぼくが愛していることをもっともっと深く伝えられたのに。バイオロイドの浅薄な感情の底を掘り下げて、もっと深く愛せたのに」

老女の鼓動が激しく鳴った。老いた肉体のせいばかりではない。逃げたはずの情熱の名残が、うなじのあたりにくすぶっていたのだろうか。

「それでも、限られた感情の枠の中で精一杯、あなたは、三十歳の私を愛してくれたというの?」

「はい」

ホストの瞳はきらきら輝いていた。嘘偽りでないことをアピールしようとする強烈な光ではない。胸の底の底から届いた優しく穏やかな、いぶし銀のような輝き。

「だったら、なぜ、戻ってきたの?」

とうとう言ってしまった。身体がかあっと熱くなる。

消えたはずの情熱が全身を被っていた。情熱の蒸気が老女の目の縁に溜まり、あっけなく涙となって流れた。彼女にとてもよく似合うワインレッドのドレスに、あとからあとから滴る。

老女は悟った。情熱は消えたり戻ったりしていたわけではない。彼女が隠していただけだ。

冷たい諦めを抱えて生きていくために、自分自身の体温を失う必要があった。情熱の高い熱との葛藤に、老いた身体で苦しみたくはなかった。だから、彼女は骨の内側の内側に情熱を忍び隠していたのだ。隠した情熱と共に、いつか焼かれて灰になることを、彼女は願っていた。

しかし、いったん溢れ出た情熱は、涙と言葉になって、あとからあとからとめどなく流れた。

「孤独だったわ。今でもよ。だから、愚かな夢想をしたの。残酷な人間の男ではなく、優しく美しいバイオロイドが、まだ若い三十歳の私と恋に落ちる。そして、過去に残り、三十歳の私と年月を共に生きていくのよ。

四十年もの年月を、私と一緒にね。そして、現在にたどり着く。年老いた私と同じくらい年老いたあなた。共に暮らした記憶は私にないとしても、年老いたあなたは現実には私のそばにいて、この家で生活している。ふとドアを開ければ、白髪か、あるいは禿げ上がった頭の老人が、当たり前のようにそこにいるの。やあ、どうしたんだい?と、何事もなかったかのような優しい笑顔で、私に語りかけてくれる」

「でも、時間のパラドックスは修正…」

「承知していた。だからこそ、夢なのよ。私が独りでいることは変わらない。変わってはならない。

でも、私が独りでいることが、本当に現在の空間や時間のバランスを保つことになるのかしら?

取るに足らない私なんかの人生が変わることくらいで、世界の歴史には何の影響もないはずよ。取るに足らない私の人生くらい、時間軸は見逃してくれるのではないか、些細な変化として修正対象から外してくれるのではないかと、そんな思いに取りつかれたの。確かに子供でもできれば大きな変化になるかもしれない。そうならないためにも、バイオロイドのあなたを選んだ。バイオロイドには、子供はつくれない。

子供は諦めてもいい。だけど、せめてだれかにそばにいてほしかった。私の人生を賭けた夢だった。そして、今日、最後の賭けをして、敗れたのよ」

顔を覆い隠す掌では塞き止められず、熱い滴りは老いた腕をゆっくり降りていく。乾いているはずの皮膚が湿りを帯びる。
作品名:0のつく誕生日 作家名:銀子