小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

0のつく誕生日

INDEX|4ページ/6ページ|

次のページ前のページ
 

「かっこいいことを言ってしまったけれど、本当のところは、私が記憶している中で、三十歳の誕生日が一番寂しい誕生日だったからよ。私、ばかだったから、臆病で卑屈なくせに、理想ばかりが高くて、愛してくれる人も愛したい人もいなかったの。そんな自分が惨めだった。落ち込みすぎて独りで過ごしたわ。友人たちからのパーティの誘いやお祝いの電話にメール、プレゼントも届いたけれど、私は孤独に引きこもった。夢敗れた誕生日。本当に寂しかった」

「でも…ご存知でしょう?ぼくが過去に行って、三十歳のあなたと過ごしても、あなたの記憶には残らない。あなたの人生も変わらない。時間軸がパラドックスを修正してしまうから」

「そうよ。今の私が憶えていないということは、おそらく三十歳の私から、あなたとの思い出は取り去られるのでしょう。でも、いいの。記憶がなくても、三十歳の私があなたと寂しくない誕生日を過ごしたことを、『現在』の私が事実として知っていれば、それでいい。せめて人生の中で、憧れの『0のつく誕生日』を過ごした事実が欲しいの。それで私は満足なのよ」

老女は薔薇の庭から離れて、ようやくはじめてホストに近づいた。指から見事な宝石の指輪を外して、ホストの手に握らせる。

「現在のお金を持っていっても、それがまだ流通していないあの時代では使えないから、この指輪を持っていって、過去で現金に換えてちょうだい。それで、三十歳の私の望みをかなえてやって。欲しがるものをプレゼントして、普段は行かないような豪華なレストランにエスコートしてあげてちょうだい。私、きっとうろたえてしまうけれど、あなたなら私をうまくフォローしてくれるわよね、ホストさんなんだもの。

それから、三十歳の私が望んだら、セックスもしてちょうだい。人肌さびしいのを、一晩でも癒してほしい。セックスに対しても良い思い出がないの。女である悦びや実感を与えて。忘れてしまうものだとしても、愛に飢えていた私を一日だけ愛で満たして」

ホストは再び老女を見つめた。真剣な面持ちに、現在の彼女こそが、愛情に飢えていることが伺えた。しかし、老いの諦めで孤独をすべて受け入れている彼女には、愛情への切迫感もその自覚も、もはやないのだった。

ホストは、握らされた指輪をさらにぎゅっと握り締めた。

「分かりました。ただ、まだ問題があります。あなたはさっき、ご自分のことを『まじめで用心深い』とおっしゃった。そんな三十歳のあなたが、いきなり現れた得体の知れない男を信じて、大切な誕生日を一緒に過ごそうとするでしょうか?」

老女はうなずいた。そして、ホストの肩にそっと手を置き背伸びして、彼の耳元で何やら囁く。

ホストは、告げられた言葉の意味が分からず、きょとんとするばかり。

「私、結婚したかったわ。子供も欲しかった。子供の名前も決めていたの。それを、だれにも言わなかったのよ。変わった名でしょう?だれもまねしない、同じ名前の人間がこの世に一人としていない、なおかつとても素敵な名前を考えて、心の中にしまっていたの。

長い人生の中で、今、はじめて他人に教えたわ。この名前を三十歳の私におっしゃい。彼女は、自分以外のだれも知るはずないことに驚いて、あなたに興味を持つわ。未来から来たことを話してもいい。でも、七十歳の私に頼まれたことは言わないで。

いずれにしろ、三十歳の私はあなたと行くわ。私、まじめで用心深かったけれど、あなたが思っている以上に夢想家だったのよ、今も昔も」

ホストは目を閉じて小さな溜め息をついたが、すぐに優しい微笑と共に目を開けた。その表情に、彼がすべてを承知したことを読み取り、またその美しさに、老女はますます眩しいものを見るように目を細めた。

「あなたは本当に用心深い人ですね。そこまで用意周到に考えていられたのだから。もとよりぼくにはお断りする理由はありません。今日一日、ぼくはあなたの『ホスト』ですから」

そう言うと、ホストはタイムマシンをスーツの胸ポケットに押し込んだ。付属の指輪をつけようとしたのを、老女が止めて、自らホストの美しい指にはめ込んだ。

「日にちも時間も場所もセットしてあるわ。帰りは今の時刻より一時間後にここへ戻ってきて。そして、私に、三十歳の私がどんな誕生日を過ごしたか、教えてちょうだい」

「なぜ一時間後に?」

「あなたが過去に行っている一時間、夢を見るためよ。三十歳の0のつく誕生日を幸福に過ごす自分を、お茶でも飲みながら、独りで想像したいの」

はじめて老女の頬に赤味がさし、まるで少女のようにはにかんだ。ホストは、起伏の少ない感情の中でも、せつなさと温かさを同時に噛み締めた。

タイムマシンのスイッチをホストは押した。彼は、砂のような残像を数秒残して、今いた場所から消えてしまった。今いた空間から、時代から、完全にいなくなったのだ。

老女は、しばらくホストの立っていた場所を見つめていた。老いて光の鈍い瞳を細めているのは、眩しかったからではない。ある一つの思惑が、彼女の中で哀しく渦巻いていたからだ。それこそ、彼女が決して現実になりはしない、彼女が見たかった夢だった。

老女は、ホストに言ったように、紅茶をいれ、煙草を吹かし、しばらくくつろいでいた。

しかし、胸の内はさざめき立っていた。諦めていた感情が一気に押し寄せ、老女は胸の痛みを何十年かぶりに思い出した。人生の中の数少ない恋のせつなさが、いっぺんに蘇る。

とうとう気持ちを抑え切れずに、老女は部屋中を歩き回る。ぐるぐる歩き回るほど、老いた肉体ゆえの心臓の鼓動が激しくなり、気持ちをぐんと高鳴らせる。

老女はキッチンを見やった。ステンレスの世界の中、数々の料理器具の静物が並んでいるだけなのに、彼女の視線は何かを探して空間を飛び交う。

次に彼女は寝室の部屋のドアを開け、そこでも視線を忙しく動かした。クローゼットを開け、ぶら下がる洋服の一枚一枚を猛スピードで確認していく。タンスも一段一段引き出して、奥の奥まで探った。

探索は、寝室だけに留まらなかった。玄関では靴の収納棚を、洗面所ではタオルの数や見慣れているはずの歯ブラシまでチェックする。家中の部屋や収納の扉という扉、すべてを開けて、老女は必死に何かを求めているのだった。

端から見れば、とうとう老い呆けた老人の奇行だったろう。でも、彼女は真剣だった。老いに鈍くなった瞳の光も、今ばかりは見る対象すべてを貫いている。死ぬその日まで止めていようとしていた時間が、一気に加速度までつけて、彼女を突き動かしているようだった。

ふと、彼女は庭に振り向いた。満開の薔薇が瞳に映える。彼女は窓辺に駆け寄り、もどかしそうに鍵を開けると、思い切り窓を引き開けた。

外の風がザザアと部屋に入ってきた。老女も風に吹かれた。薔薇の香りの風が、いくらか乱暴に老いた肌を触っていく。

風の湿り気に気持ちを逸らされたのをきっかけに、老女は背中の向こう、何かの気配に気がついた。嫌な予感に老女は振り向く。

リビングの空間に、砂のような現像が現れていた。ゆっくりとだが、次第に鮮明になり、人の姿を構成していく。老女は勢い込んで壁時計を見上げた。約束の一時間がちょうど経とうとしていた。
作品名:0のつく誕生日 作家名:銀子