0のつく誕生日
「ばかなのよ。私、あなたが過去へ行っている一時間、何をしていたと思う?家中、あなたを探し回っていたの。どこかに老いたあなたがいないか、それこそ必死にね。だれかと一緒に暮らしている形跡がないか、クローゼットも靴箱もひっくり返したわ。でも、出てくるものは、老いた女の寂しい一人暮らしの証拠ばかり。それでもどこかにあなたがいるはずだと、必死に痕跡を探し回っていたの」
そのための一時間だった。失った人生の取り返しと、残りの満ち足りた人生を求める、彼女にとって遠大な時間だった。
「老いたぼくでなければいけませんか?」ホストは湿った老女の腕を取った。「あなたが望むなら、薬で細胞を老化させて、老いることも可能ですよ」
老女は顔を伏せたままで首を振る。
「もういいの。私は夢を見た。あなたが夢を見せてくれた。あなたは十分、役目を果たしてくれた。考えてみれば、二十四時間というレンタル時間も、過去で使ってしまったから、とっくに時間切れになっているわね。延長料金として、ちゃんとお支払いするから心配しないで。あなたは十分よくやってくれた。この年老いた人間の茶番によく付き合ってくれたと思っている」
「老いてはいませんが、ぼくは、現在、あなたのそばにいるのですよ」
「ごめんなさい。私はお金持ちではないの。今後もあなたを贔屓に指名して呼んであげられないわ。それに、あなたを見ると今日のことを思い出して辛くなる。常連になってあげられなくて、ごめんなさいね」
「そんなことを言っているのではない!ああ、どうしよう、ぼくの限られた感情では、人間のあなたには届かないのだろうか!?」
限りなく優しかったホストのただならぬ様子に、老女はやっと掌から顔を上げた。
ホストは怒声を張り上げたわけではない。苛立たしさのままテーブルを叩いたわけでもない。ほんの少し、少しだけ、声を大きくしただけだ。
バイオロイドには、それが精一杯だった。希薄な感情表現は、意志の伝達としては非常にたどたどしい。
しかし、老女は顔を上げてホストを見て、自分の直感が正しかったことを悟った。ホストは、泣き出しそうな顔で――彼にしてみればすでに泣いていたのかもしれないが――老女を見つめていたからだ。
「ぼくが現在に戻ってきたのは、もう一人、0のつく誕生日を迎える女性が、現在にいたからです。ぼくは、確かに過去の三十歳の女性に恋したけれど、その前に、一目見るなり恋した女性が、ここにいた。その人を忘れることはできなかった。だから、ぼくは戻ってきた、ここに」
老女は信じられないとばかりに首を振り続ける。
「こんなおばあちゃんに、若く美しいあなたが恋をするはずがないわ」
「ぼく、こう思うんです。確かに、ぼくらバイオロイドは人間の深く豊かな気持ちに追いつけないけれど、人間も深い感情を持っているくせして、浅薄なバイオロイドの気持ちすら分からないのではないかと。
人間とバイオロイドの別はあったとしても、やはり互いの気持ちなんて推し量るしかできないんですよね。真実は、だれにも分からない。
ただ、やはりぼくはバイオロイドだから、人間ほど感情が強烈でも複雑でもありません。美しいものが老いているくらいのことで、愛情の対象から外したりできるほど、暖かい感情と冷たい感情を同居させるような複雑なことができません。
ぼくの中では、ぼくが美しいと思うもの、せつないと思うもの、愛しいと思うものに対して、ずっと一緒にいたいと願う気持ちが、直結します。薔薇の影に沈むあなたの横顔を見た瞬間から、ぼくは恋に落ちた。ただ、それだけです」
ずいぶんとロマンチックな口説き文句だが、抑揚の付け方の巧くない彼が言うと、ほとんど棒読みだ。
本人は誠意を込めて一生懸命伝えようとしているのだが、人間のホストに人気があるのもうなずける話である。
しかし、バイオロイドよりもずっと感情を上手に表わすことができる人間なのに、老女に反応はなく、彼女こそがバイオロイドのように押し黙っている。彼なりの熱弁の間に、涙もとうに乾き、老いた皮膚は乾いた皺を走らせているだけだ。
しかし――バイオロイドの彼は他人の気持ちを読み取ることが苦手だから、気づかなくても無理はないのだが、彼女の老いて鈍くなっているはずの瞳の光は、豊かな水面の照り返しのよう、きらきら、きらきら、輝いていたのである。
幸福の兆しを読み取れぬまま、ホストはあいかわらず一本調子で話し続ける。
「昔、とても良い人たちがいて、ぼくらバイオロイドにも独立する権利をくださった。ぼくは自分の意志であなたのそばにいることができる。たとえ恋人としてでなくてもいい、子供が欲しかったとおっしゃっていましたね、だから子供としてでも孫としてでもいい、あなたのそばに置いてください。あなたがぼくだけに教えてくれた、子供につけるはずだったというあの名前、ぼくにください。あなたの残りの人生を、ぼくと一緒に過ごしてください」
ホストは思い切ったように立ち上がり、おずおずと老女に手を差し伸べた。
「さあ、まずは一緒に庭に出ましょう。薔薇が奇麗ですよ。まだあなたの『0のつく誕生日』ははじまったばかりなのだから」
老女はホストの手を取り、すくっと立ち上がった。その年齢にふさわしくない、まるで若いやんちゃな少女のようなしなやかさがあった。
ホストの手を改めて力強く握り、彼女は魔法の名前を口にした。
ようやくホストも気がついた。ばら色の彼女の頬に。
「子供の名前と言ったのは本当だけれど、こうも思っていたの。愛する人のことも、そう呼びたいと」
ホストはじっくり考えた。感情は希薄でも、頭は決してばかではないから、本当は彼女の言わんとしていることがすぐに理解できていた。でも、胸から込み上げる温かな思いを「幸福」と呼ぶことを、じっくり味わいたかったのだ。
限りある感情だとしても、その枠の中で幸福は幾度もこだまして、彼の胸をいっぱいにした。
「お誕生日おめでとう」
恋人同士は、手を取り合い、互いに薔薇の庭へ誘う。
<おわり>