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天の階(きざはし)~蒼穹のかなたに見たものは~ Ⅱ

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 その刹那、お璃久は叫んでいた。
「何で、何で、富松さんを死なせたりしたの? 何で、泣く子も黙る明神の龍五郎がマムシなんかに負けたのよ?」
 お璃久は夢中で龍五郎の側へいった。泣きながら、龍五郎に拳を振り上げる。
「おい、止せ」
 背後から卯吉が止める声も耳に入らない。
 泣きじゃくるお璃久を、龍五郎はそっと抱きしめた。
 龍五郎の腕の中で、お璃久は幾度もその胸を叩いた。逞しい龍五郎の胸は女のか細い力ではビクともしない。龍五郎は黙って、お璃久のなすがままにさせておいた。
 それは、まるで父親が駄々っ子の娘をなだめているようにも見える。卯吉はその光景を複雑な想いで眺めていた。
 龍五郎の心の底には、お璃久への恋情が流れている。お璃久自身は気づいているかどうかは判らないが―、卯吉には、はきとそれが判った。
「お璃久、もう止めるんだ。親分さんはできるだけのことをして下さったんだ。その親分さんを責めるのは、とんだ筋違いってもんだぜ」
 一刻(ひととき)の後、卯吉はそっと後ろからお璃久の肩を叩いた。
 お璃久はしゃくり上げながら、龍五郎から離れた。龍五郎が痛みをこらえるような顔でお璃久を見ていた。
 そんな龍五郎の顔を見るのは、卯吉は初めてであった。
「ごめんなさい、私ったら」
 お璃久が涙ながらに謝った。
「いや」
 龍五郎が沈痛な面持ちで首を振った。
 卯吉は黙って、龍五郎に深く頭を下げた。




 龍五郎の家からの帰り道、お璃久は卯吉と並んで、ゆっくりと歩いた。
 龍五郎の家にいたのは、思っていたより長かったらしい。陽は既に高くなっており、大方昼前にはなっているようだった。
 店のことが気掛かりでないこともなかったが、そこは今は隠居とはいえ、長年やってきた卯平がうまく切り回してくれているはずである。
 既に少し歩けば汗ばむほど暑くなっており、もうすっかり夏の気配である。大勢の人が忙しなく行き交う往来を、二人とも口をきくこともなく、ただひたすら歩いた。
 町の賑わいと喧噪が、お璃久にはどこか遠く隔たった別世界のことのように思えた。
 いかほど歩いたときだったか、お璃久が突如として気まずい沈黙を破った。
「お前さん、私、お勝ちゃんを引き取ろうと思うんですけど」
 卯吉がチラリとお璃久を見た。
 お璃久はうつむいた。
 夏の陽が二人の影を乾いた埃っぽい地面に落としている。
「判ってます。他人(ひと)様の子を育てるのは、並大抵のことじゃないと思ってます。でも、富松さんがどんな想いで自分から死を選んだかと思うと、私―」
 お璃久の眼にまた新たな涙が盛り上がった。
 背教の禁を犯して、最後まで守り抜いた娘。富松が死に際して唯一心残りだったのは、幼い娘の行く末であろうことは想像に難くない。
 卯吉は依然として黙り込んでいる。
 お璃久が何か言おうと口を開きかけたその時。
 往来の向こうから、賑やかな呼び声が響いてきた。
「金魚ェー、金魚」
 江戸の夏を彩る風物詩、金魚売りである。
「早えな、もう金魚売りの季節か」
 ふと呟いたかと思うと、卯吉が声を張り上げた。
「おい、済まねえが、一つくんな」
「オウ、ありがとよ」
 まだ若い金魚売りは、半日中売り歩いて早くも陽に焼けた顔をほころばせた。
「兄さんも隅におけねえな。そんな美人の嫁さん連れて。こちとら、いまだにまだ嫁の来手もねえ淋しい身の上さ」
 金魚売りは喋り好きらしく、卯吉に賑やかにまくしたてた。
「ガキに買って帰るのかい」
 金を払っている卯吉に、金魚売りが訊ねる。
「ああ、娘が家で待ってるんでな」
 お璃久がハッとしたように、卯吉を見た。
 卯吉は知らん顔である。
「そうと聞きゃあ、ついでだ、おまけをつけとくよ」
 金魚売りは盥で泳いでいるたくさんの金魚の中からもう三匹掬って、小さな器に入れてくれた。人の好さそうな丸顔に笑顔が浮かんでいた。
 器を覗き込むと、赤瑪瑙のような金魚が四匹、仲良く寄り添って泳いでいる。いかにも初夏らしい、涼しげな光景であった。
「ところで、兄さんところにゃあ、猫はいねえかい」
 金魚売りが思い出したように訊ねる。
 卯吉が笑って、傍らのお璃久をつついた。
「こいつが大の猫好きでね、三匹もいる」
「そいつはいけねえ。おかみさん、くれぐれも用心しなすって下せえよ。折角の金魚が明日の朝には、もう一匹になっちまったってことはねえようにね」
「気をつけます」
 大真面目に応えるお璃久に、金魚売りが弾けるような笑い声を上げ、そんな二人のやり取りを卯吉も笑って眺めていた。
「お前さん、ありがとう」
 四匹の金魚の入った器をしっかりと抱えて、お璃久は歩いた。
 卯吉は照れ臭いのか、少し先を歩いている。面と向かって気のきいたことを言えるような性分ではないのだ。
 その点、良人は父に似ていた。父正吉は、大工の棟梁として大勢の弟子たちから尊崇を集めている。その父も一見無愛想で、口数も少ない。その上、無骨で、〃所帯を持ってからこの歳になるまで、気の利いた台詞を言われたことなんて、数えるほどもない〃と母がよく冗談混じりにこぼしているほどである。
 そんな父にもう少し母に優しい言葉をかければ良いのにと、娘としてもどかしい想いを抱いたこともあった。
 だが、よくよく気が付いてみれば、自分もまた母のように、無骨で無口な男を良人に選んでしまったようだ。お璃久は人生の不思議に、今更ながらおかしかった。
「何でえ、何を思い出し笑いなんぞしてやがる」
 卯吉が一人で笑っているお璃久を振り返った。
「いいえ、今日から一度に家族が増えるなと思ったら、つい嬉しくて」
「猫が三匹、金魚が四匹」
 卯吉が指を折る。
「それに、お勝ちゃん」
 お璃久が言うと、卯吉が頷いた。
「大所帯だ、賑やかになるな」
「本当ですね」
 お璃久は明るい声で言ったが、次の瞬間、顔を曇らせた。
「どうした?」
「でも、お勝ちゃんが私たちと暮らす気になってくれるでしょうか」
 気遣わしげに言うお璃久に、卯吉は笑顔をこしらえた。
「俺たちが本気であの子の親になりてえと思ったら、あの子もまたその中には俺たちを親と思ってくれるようになるよ」
 お璃久はまだ心もち不安げな顔で、小さく頷いた。
 その時、お璃久が右手で口を押さえた。激しい吐き気が身体の奥底からせり上がってきて、お璃久はその場へしゃがみ込んだ。
「おい、どうした? お璃久!?」
 卯吉が血相を変えて、お璃久を覗き込んだ。
 〃大丈夫〃と応えようとして、また吐き気を覚え、激しく咳き込む。あまりの苦しさに涙目になった。
「もしかして、お前―」
 卯吉が遠慮がちに言った。
「―?」
 お璃久はまだ続く吐き気をこらえて、やっと立ち上がった。良人の意を計りかねて、小首を傾げて卯吉を見つめる。
 そんなお璃久から卯吉は照れくさそうに視線を逸らした。
「まさか、赤ン坊ができたんじゃねえのか」
「え―」
 それは全く青天の霹靂であった。祝言を挙げてから三年の月日が経過していた。その間、一度として懐妊の兆候すらなかったというのに、今になって突然身ごもるとは。