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天の階(きざはし)~蒼穹のかなたに見たものは~ Ⅱ

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 どうやら、卯吉とその若い男は知り合いのようである。
 痩せていて、貧相な男だが、目付きは鋭く、見るからにやくざ者といった感じだ。それは、二日前、卯吉を龍五郎の許へ案内した子分であった。
「すぐに来てくんな」
 若い衆の言葉に、卯吉の顔色がスウと白くなった。
「まさか富松さんに何かあったのか!?」
 良人の大きな声に、お璃久も弾かれたように顔を上げた。
「詳しいことは親分から話すそうだ。とにかく早く来てくれ」
 男の声もどこか切迫していた。卯吉とお璃久はとりあえず浅吉(せんきち)というその男と共に龍五郎の家へと向かった。
 お勝とお絹は隣の鋳掛け屋の女房に頼んだ。
 急げるだけ急いで龍五郎の家に着いたときには、お璃久はすっかり息が上がってしまっていた。
 流石に卯吉は男だけあって、平然としている。
「大丈夫か」
 問われ、お璃久は荒らい息を吐きながら頷いた。
 すぐに浅吉に案内され、見覚えのある座敷に通された。四年前、〃いっぷく〃(今の〃ねこや〃)を借金のかたに売らなければならなくなりそうになった時、龍五郎の許を訪れた。そのときに案内された部屋である。
 部屋の中はあのときと全く変わらなかった。床の間には、達磨の掛け軸が掛かり、龍五郎がその前に座っている。
 あの時、どうにでもしてくれと言ったお璃久を龍五郎は抱き寄せ、膝に乗せた。お璃久はこれでもう卯吉の側にはいられないと思ったものだったが、意外なことに、龍五郎はお璃久からあっさりと手を離した。
 生きていれば、お璃久と同じ歳の娘がいた―、お璃久を膝から降ろし、龍五郎は遠い瞳で語った。そして、眼の前で卯平が名を書かされた証文を焼き捨てたのだ。
 言わば、龍五郎はお璃久の心意気をかってくれたわけだが、恐らく、お璃久の上に成長した娘の面影をも重ねていたに相違なかった。
 あれから四年、龍五郎は少し太って、更に貫録がついたようだ。あまたの若い者から慕われるだけあって、その逞しい体躯からは風格すら感じさせる。
「久しぶりだな」
 龍五郎が眼を細めた。
 傍らの浅吉が眼を見開いている。皆から畏怖される龍五郎がこんな穏やかな優しい眼をすることなぞ、ついぞ見かけたことがないからだ。
「その節は色々とお世話になり、ありがとうございました」
 お璃久が頭を下げると、龍五郎は声を上げて笑った。
「お前にはそんな殊勝な口ぶりは似合わねえ。やっぱり威勢良く啖呵を切ってた方が良いぜ」
 言われて、赤くなった。
 初めて龍五郎が〃いっぷく〃に借金の取り立てに来た時、お璃久は龍五郎を相手に勢いよくまくしたてたことがあった。龍五郎は、その時、お璃久の気っ風の良さに惚れたのだ。
 龍五郎の視線がお璃久からすっと隣の卯吉に向けられた。
 笑いが消え、一転して、顔つきが固くなる。
「若えの、お前に来て貰ったのは、他でもねえ」
 その口ぶりから、良い話ではないことが判った。
「富松さんの身に何かあったんで?」
 卯吉の表情が強ばった。
 お璃久は膝の上で組んだ手を握りしめた。
 心なしか、身体が震えた。
「富松が今朝早くに息を引き取ったそうだ」
「そんな―」
 お璃久は衝撃で、呼吸が止まりそうになった。
「北町の吟味与力に知り合いがいてな」
 今月の月番は北町奉行所である。
 龍五郎は続けた。
「ちょっとしたことで前に捜査に手を貸してやった恩がある。その旦那に頼んだのよ。何しろ、まだ若造のくせに奉行の信頼も厚い出世頭だっていうんで、かなり当てにできるんじゃねえかと踏んだんだが」
 そこで言葉を区切り、お璃久を見た。
 お璃久はあまりのことに、言葉もなく小刻みに身体を震わせていた。
 龍五郎が一瞬、痛ましげにお璃久を見たが、それはほんのわずかのことだった。次の瞬間には、もういつもの極道の大元締の顔を取り戻していた。
 だが、そのさざ波ほどの変化を、卯吉だけは見逃さなかった。
―この男はお璃久に惚れている。
 改めて、そのことに気づいた。同じ女を想う男として、卯吉は鋭敏にそれを察知したのだ。
「富松は見かけはかなりの優男だったらしいが、外見によらず気丈な奴だったらしい。喜八のあの地獄のような拷問にもじっと耐えていたそうだ」
 それが喜八には面白くなかったらしい。いずこからともなく踏み絵を持ってきて、富松に踏めと言った。
 踏み絵とは、隠れキリシタンを暴くために使われたもので、聖母マリアやイエス・キリストの絵や像である。喜八は富松に、キリシタンでない証拠に、踏み絵を踏めと迫ったのだった。
「だが、驚いたことに、富松は聖母マリアのその彫り物を踏んだんだな。慌てたのは喜八の方だ。あいつは一度捕まえた獲物は必ず息の根を止めるのを売りにしている」
 龍五郎は苦々しげに言った。
 無頼の輩とはいえ、龍五郎は任侠にも厚く、男気もあった。大勢の若い者に慕われるゆえんでもある。そんな龍五郎から見れば、お上から十手を預かる岡っ引きがそれを盾に好き放題をしているのは、さぞ見苦しいものに違いなかった。
 富松はたいがいの者は途中で音を上げるという地獄の責め苦にも耐え抜き、踏み絵もあっさりと踏んだ。喜八は狼狽(うろた)えた。
「これじゃあ、マムシの名が泣くと思ったんだろうな。あいつ、卑怯な真似をしやがった」
 喜八はあろうことか、娘のお勝までもしょっ引くと言い出したのだ。
 お璃久には富松が踏み絵を踏んだときの心持ちが判るような気がした。
 その時、本当はどれだけ抵抗があったことだろうか。だが、彼は踏んだ。
 それは何故か。彼が愛して止まない一人娘お勝のためであった。何としても娘の許に生きて帰りたい一心で、富松は心から血の涙を流しながら、マリアの絵を踏んだに相違ない。
「そこに、運が悪いことに、富松が隠し持っていた耶蘇の数珠が喜八の知るところとなった。もう言い逃れはできねえ。喜八は富松が娘のために踏みたくもねえ絵を踏んだと確信した。それで、あくまでも真実を認めねえのなら、その可愛い大事な娘まで咎人になるぞと脅かしたのさ」
 龍五郎の言う耶蘇の数珠とは、大方ロザリオのことだろう。富松がお璃久に見せてくれた、あの神父から貰ったというものに違いなかった。
「富松さんは自分から生命を絶ちなさったんですね?」
 お璃久が涙声で言った。
「ああ」
 龍五郎が頷いた。
 お璃久の眼から涙が溢れ、白い頬をつたい落ちた。
 キリスト教では、自ら生命を絶つことは戒律で固く禁じられていると聞いたことがある。
 娘のために信仰するマリア像を踏み、戒めを破り自害した。その富松の心根は察するに余りするものがあった。死に際して、壮絶な覚悟を持っていたのだろう。
 自分さえこの世からいなくなれば、流石の喜八もお勝までを捕らえようとはしないだろう、富松は悲壮な想いで考えたに違いなかった。
「酷い―」
 お璃久は両手で顔を覆った。涙が後から後から溢れ出てきて、止まらない。
 卯吉が苦いものでも呑み込んだような顔で、そんなお璃久を見ていた。
「あいつは死人の骨の髄までむしゃぶり尽くすような野郎だ。マムシどころか、ハゲタカのような奴だぜ、人間の屑だ」
 龍五郎が吐き捨てた。
「済まねえ、俺の力が及ばなかった」
 龍五郎が頭を下げる。