小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

天の階(きざはし)~蒼穹のかなたに見たものは~ Ⅱ

INDEX|4ページ/4ページ|

前のページ
 

 だが、考えてみれば、思い当たる節が幾つかある。姉のお希世が初子を身ごもった時、悪阻が激しくて、ずっと寝たきりの状態が続き、一時実家へ帰ってきていたことがあった。
 そのときの姉もやはり、こんな風に吐き気をこらえて、咳き込んでばかりいた。
 それに、月のものももうかなり遅れている。元々そんなことには頓着しない質だったから、深くも考えもしなかった。もし仮に卯吉の言うように身ごもっているとしたら、もう三月(みつき)に入っていることになる。
「お前さん―」
 お璃久は思わず心細げに卯吉を見上げた。
「全く、普通はそんなことは、男より当の女の方が先に気づくもんじゃねえのか」
 卯吉が苦笑いを浮かべた。が、その顔はこれまでになく晴れやかである。
 無理もない、待ち望んだお璃久の懐妊なのだ。
 が、お璃久は再び浮かぬ顔でうつむいた。
「どうしたんでえ、お前がいちばん嬉しいはずじゃねえのか」
 卯吉が驚いたように、お璃久を見た。
「でも、よりによってこんなときに、身ごもるだなんて。私に赤ン坊ができちまったら、お勝ちゃんは益々心を開いてくれなくなるんじゃないかしら」
 卯吉がお璃久の額を指でチョンとつついた。
「お前は能天気なくせに、ちょいと考え過ぎなところがあるな。あの子は利発な子だ、道理の判らねえはずはねえぜ。それとも、お前、自分の子ができちまったら、あの子を引き取るのが嫌になったのか?」
 お璃久は大きく首を振った。
「そんな、ひどいこと言わないで。私は―」
 言いかけるお璃久の眼が潤んでいるのを見て、卯吉は慌てた。
「す、済まねえ。言い過ぎちまった。大丈夫かな、腹の子に障らねえか」
 おずおずと問う卯吉に、お璃久は微笑んだ。
「大丈夫ですよ、それくらい」
「とにかく、あまり端(はな)から心配しすぎても意味がねえ。ゆっくりと時間をかけて、本当の家族になっていこう、な?」
 卯吉の言葉に、お璃久が頷いた。
 とりあえず帰ったら、係りつけの町医者加納弦安を訪ねてみよう、と、お璃久は考えた。
 長屋の木戸口を通り、見慣れた裏店の光景が見えてきた時、家の前で所在なげに立っているお勝の姿が眼に入った。
 鋳掛け屋の女房は買い物にでも出かけたのだろうか。
 家に戻ったのか、お絹の姿は見えなかった。
 たった一人で心細い想いを抱えて、あの子は一体、いつからああやって、あそこに立っていたのだろう。
 ふと、お勝が顔を上げた。お勝の眼とお璃久の眼が合う。
 刹那、お璃久は走り出していた。
「おい、お璃久ッ、走ったりするんじゃねえ。危ねえだろうが」
 卯吉の狼狽える声がしたが、頓着しない。
 お璃久のひろげた腕の中に、お勝が飛び込んできた。
 子ども特有のやわらかで、温かな感触がお璃久を包んだ。
 この子にとって、たった一人の父親は既にこの世にはない。その重い、あまりにも重すぎる事実をこれから、この七歳の少女に話さなければならない。
 それを思うと、お璃久は我が身を切られるようにつらかった。
 が、いつまでも隠し通せることではない。いずれ、富松が亡くなったことは、お勝の知るところとなる。
―ゆっくり時間をかけて、家族になっていこう。
 先刻の良人の言葉が蘇る。
 腕に抱いたお勝の肩越しに、抜けるような蒼空がひろがっていた。
 どこまでも果てしなく、湖のように澄んだ蒼が続く。その上に輝く太陽が眩しい光のきらめきとなって、見上げたお璃久の眼を射た。
 お璃久は眩しさに、思わず眼を閉じた。
 富松の深い緑の双眸が、儚い微笑がありありと眼裏(まなうら)に浮かび、ゆっくりと通り過ぎていった。
―あの蒼空に向かって続く長い階段を辿れば、主のみ許にゆけます。すべての人を許す心を持ち続けていれば、いつか天上の国へとゆけるのです。
 何もかも諦めたような、それでいて穏やかさに満ちた笑顔で語った言葉が忘れられない。
 もう一度ゆるりと眼を開くと、相も変わらず澄んだ湖水のような蒼穹が涯(はて)なく続いている。
 富松の信じ憧れてやまなかった神のおわすという天国。その天国の扉へと続く階段が蒼空の向こうに見えるような気がして、お璃久は滲んできた涙を瞬きして、そっと乾かした。                                     (了)