天の階(きざはし)~蒼穹のかなたに見たものは~ Ⅱ
それから二日経った。
その間、お璃久をはじめ、卯吉も落ち着かない心を抱えて過ごした。本当はつらくて仕方ないのに、お勝が何事もないかのように明るくふるまっているのが不憫であった。
三日めの朝、いつものように店を出る前に三人で朝飯を取っていた最中のことである。
お璃久が途中でふいに箸を置いた。
「今日、龍五郎親分のところを覗いてみます」
唐突に言い出したお璃久を、卯吉がじっと見つめた。
「もうちょっと待ちねえ」
「でも」
お璃久はお勝の手前であることもつい忘れた。
「あんまり遅すぎます。せめて何か少しでも動きがないか、それだけでも確かめてきます」
お勝が考え深そうな瞳をお璃久に向けていた。
「帰ったときも話しただろう? 龍五郎親分の手にすら余るような、難しい話なんだ。おいそれとお解き放ちになるはずもあるめえ」
キリシタンは幕府が厳重に取り締まっている禁教であり、それに眼をつけたのが〃マムシ〃と異名を取る喜八ときている。いくら極道の親分龍五郎が裏から手を回すにしても、相当の刻(とき)を要するはずであった。
お璃久は不服げな顔で押し黙った。
それ以上食事をする気にもなれず、箸を置いたまま、うつむいた。
判ってはいるのだ。卯吉の言葉は一々もっともだと思う。卯吉の話によれば、龍五郎はひとたびはこの話を断ったという。あの龍五郎がためらうほどに、事は深刻なのだ。卯吉のたっての頼みで、漸く引き受けてくれたものの、その結果についてはあまり期待しないで欲しいと言ったそうだった。
一つ間違えば、龍五郎もお上に睨まれるどころか、捕らえられ打ち首獄門になる危険性だってないとはいえないのだ。それを、ひと肌脱いでくれようかと引き受けてくれたのだから、これ以上の無理は言えない。
頭では判ってはいても、こうして呑気に構えている間も、富松がどんな目に遭っているかと思えば、のんびりと飯なぞ食べてはいられない心境なのだ。
多分、富松はキリシタンであることを自らあっさりとは認めまい。彼一人ならともかく、彼には娘のお勝がいる。お勝のためにも、富松は生きようとするはずであった。
岡っ引きの喜八は、富松に真実を吐かせようと、容赦ない拷問にかけるだろう。お璃久には想像もつかないけれど、喜八の尋問は、激しい責め苦を与えるもので、常人でも三日は持たないという。
あまりの苦しさゆえに、早く責め苦から逃れたいがため、無実の人間ですらしまいは自ら罪を認めるというほど酷いものだといわれていた。
折角龍五郎が救いの手を差し伸べてくれても、そのときに富松の身に何かあった後では遅いのだ。
お璃久が大きな息を吐いた時、表の方で騒がしい音がした。
誰かがガタガタと音を立てて表から腰高障子を開けようとしているらしい。立て付けの悪い戸は押しても引いても微動だにしないときがあり、少々のコツが必要だった。
卯吉が手慣れた様子で中から開けると、小さな人影がおずおずと姿を見せた。
「お絹ちゃん―」
お璃久が眼を見開いた。
お絹は眼を真っ赤にしていた。
「どうしたの?」
優しく問うてやると、お絹はすすり上げた。
「あの人、まだ帰ってこないの?」
お璃久には、お絹の言う〟あの人〝が誰なのか瞬時に判った。
お絹の眼に大粒の涙が盛り上がっていた。
「あの人、笑ってたの。喜八親分に連れてゆかれる時、笑って見ていたのよ」
喜八が長屋に踏み込んできた時、丁度、お絹は末の赤ン坊を背中にくくりつけ、長屋前の路地を行きつ戻りつしていた。
母の乳の出が悪く足りないせいか、生まれて日の浅い妹はよく泣いた。その度に、お絹は赤ン坊を負うと、外へ出なければならなかった。
現金なもので、背負われると、赤児はすぐに眠りに落ちた。お絹が溜め息をついて、背中の赤ン坊を揺すり上げた時、手前から見覚えのある男がやって来た。
大人だけでなく、この界隈の子どもたちからも嫌われている十手持ちであった。
刹那、お絹の顔色が変わった。喜八は、お絹の顔を知らぬはずがない。が、怯えている子どものことなど眼中にもない様子で、側を通り過ぎ、卯吉の住まいへと入っていった。
お絹はすべての神経を耳と眼に集中させた。富松はさしたる抵抗もしなかったのか、家の中からは何の物音も聞こえてはこなかった。固唾を飲んで見守っている中(うち)、ほどなく、喜八が富松を連れて出てきた。
富松は後ろ手に縄をかけられていた。
二人の後から、少女が泣きながら追いすがってきた。富松の娘の、お勝という少女だった。
富松がお勝に何か言い聞かせるように話しかけ、喜八に促されるまま、歩き始めた。
ふと、富松と視線が合い、お絹は狼狽えた。
富松の深い緑の瞳は、真っすぐにお絹を捉えていた。恐怖とも何ともたとえようのない感情に、お絹はまるで瘧(おこり)にかかったように、身体を小刻みに震わせていた。
富松を売ったのは、他ならぬお絹だった。〝マムシ〝と異名を取る喜八に、富松がキリシタンであることを、お絹が知らせてやったのだ。
お絹はまだ世間知らずだった。キリシタンであることが露見すれば、また、喜八のような質の悪い男に一度捕らえられれば、どうなるかについては深く考えもしなかった。ただ、腹立ち紛れに、喜八に密告したにすぎなかった。
富松から眼を背けようとしたその時、信じられないことが起こった。
富松がフッと微笑んだのだ。
まるで、ふわりと花の蕾がほころぶように、富松は笑った。その微笑を見た瞬間、お絹は、震えるどころか、身体が金縛りに遭ったように動かなくなった。
男の顔には、憎しみや嫌悪といった負の感情は何もなかった。ただ穏やかな微笑が刻まれていた。
お絹はそれ以上男の顔を見ていられなくて、赤ン坊を背にくくりつけたまま、逃げるようにして自分の家へと駆け戻った。背後で響いていたお勝の泣き叫ぶ声だけがいつまでも耳に残って離れなかった。
「私があの人を―」
お絹が言いかけた時、お璃久はそっと首を振った。
「富松さんは、あなたを初めから恨んではいないと思うわ、お絹ちゃん」
だからこそ、穏やかな顔でお絹を見ることができたのだろう。
いかにも富松らしいと、お璃久は思った。
だが、なにゆえ、そんな彼が過酷な試練ばかり与えられなければならないのだろうか。
お璃久を言いようのない哀しみが襲った。
富松は自分を喜八に売った人間がそも誰か、その正体に感づいていたに相違ない。
恐らく、富松はあの何もかもを諦めたかのような、透明な微笑みを浮かべていたのだろう。富松のあの笑顔は諦めの微笑でもあり、許しの微笑でもあった。どんな酷い言葉で責められるよりも、それはお絹にとって激しい衝撃を与えたはずだ。
「まさか、こんなことになるとは思わなかったの。親分に連れていかれたって、すぐに帰ってくると思って、私、私」
お絹は皆まで言えず、泣きじゃくった。
「もう、いい。もう、いいのよ」
お璃久は号泣するお絹をそっと腕に抱きしめた。
その時、泣いているお絹の後ろから、一人の男が勢い余って転がり込んできた。
相当に急いできたものか、肩を激しく上下させている。
「お前は龍五郎さんのところの」
卯吉が驚いたように言った。
その間、お璃久をはじめ、卯吉も落ち着かない心を抱えて過ごした。本当はつらくて仕方ないのに、お勝が何事もないかのように明るくふるまっているのが不憫であった。
三日めの朝、いつものように店を出る前に三人で朝飯を取っていた最中のことである。
お璃久が途中でふいに箸を置いた。
「今日、龍五郎親分のところを覗いてみます」
唐突に言い出したお璃久を、卯吉がじっと見つめた。
「もうちょっと待ちねえ」
「でも」
お璃久はお勝の手前であることもつい忘れた。
「あんまり遅すぎます。せめて何か少しでも動きがないか、それだけでも確かめてきます」
お勝が考え深そうな瞳をお璃久に向けていた。
「帰ったときも話しただろう? 龍五郎親分の手にすら余るような、難しい話なんだ。おいそれとお解き放ちになるはずもあるめえ」
キリシタンは幕府が厳重に取り締まっている禁教であり、それに眼をつけたのが〃マムシ〃と異名を取る喜八ときている。いくら極道の親分龍五郎が裏から手を回すにしても、相当の刻(とき)を要するはずであった。
お璃久は不服げな顔で押し黙った。
それ以上食事をする気にもなれず、箸を置いたまま、うつむいた。
判ってはいるのだ。卯吉の言葉は一々もっともだと思う。卯吉の話によれば、龍五郎はひとたびはこの話を断ったという。あの龍五郎がためらうほどに、事は深刻なのだ。卯吉のたっての頼みで、漸く引き受けてくれたものの、その結果についてはあまり期待しないで欲しいと言ったそうだった。
一つ間違えば、龍五郎もお上に睨まれるどころか、捕らえられ打ち首獄門になる危険性だってないとはいえないのだ。それを、ひと肌脱いでくれようかと引き受けてくれたのだから、これ以上の無理は言えない。
頭では判ってはいても、こうして呑気に構えている間も、富松がどんな目に遭っているかと思えば、のんびりと飯なぞ食べてはいられない心境なのだ。
多分、富松はキリシタンであることを自らあっさりとは認めまい。彼一人ならともかく、彼には娘のお勝がいる。お勝のためにも、富松は生きようとするはずであった。
岡っ引きの喜八は、富松に真実を吐かせようと、容赦ない拷問にかけるだろう。お璃久には想像もつかないけれど、喜八の尋問は、激しい責め苦を与えるもので、常人でも三日は持たないという。
あまりの苦しさゆえに、早く責め苦から逃れたいがため、無実の人間ですらしまいは自ら罪を認めるというほど酷いものだといわれていた。
折角龍五郎が救いの手を差し伸べてくれても、そのときに富松の身に何かあった後では遅いのだ。
お璃久が大きな息を吐いた時、表の方で騒がしい音がした。
誰かがガタガタと音を立てて表から腰高障子を開けようとしているらしい。立て付けの悪い戸は押しても引いても微動だにしないときがあり、少々のコツが必要だった。
卯吉が手慣れた様子で中から開けると、小さな人影がおずおずと姿を見せた。
「お絹ちゃん―」
お璃久が眼を見開いた。
お絹は眼を真っ赤にしていた。
「どうしたの?」
優しく問うてやると、お絹はすすり上げた。
「あの人、まだ帰ってこないの?」
お璃久には、お絹の言う〟あの人〝が誰なのか瞬時に判った。
お絹の眼に大粒の涙が盛り上がっていた。
「あの人、笑ってたの。喜八親分に連れてゆかれる時、笑って見ていたのよ」
喜八が長屋に踏み込んできた時、丁度、お絹は末の赤ン坊を背中にくくりつけ、長屋前の路地を行きつ戻りつしていた。
母の乳の出が悪く足りないせいか、生まれて日の浅い妹はよく泣いた。その度に、お絹は赤ン坊を負うと、外へ出なければならなかった。
現金なもので、背負われると、赤児はすぐに眠りに落ちた。お絹が溜め息をついて、背中の赤ン坊を揺すり上げた時、手前から見覚えのある男がやって来た。
大人だけでなく、この界隈の子どもたちからも嫌われている十手持ちであった。
刹那、お絹の顔色が変わった。喜八は、お絹の顔を知らぬはずがない。が、怯えている子どものことなど眼中にもない様子で、側を通り過ぎ、卯吉の住まいへと入っていった。
お絹はすべての神経を耳と眼に集中させた。富松はさしたる抵抗もしなかったのか、家の中からは何の物音も聞こえてはこなかった。固唾を飲んで見守っている中(うち)、ほどなく、喜八が富松を連れて出てきた。
富松は後ろ手に縄をかけられていた。
二人の後から、少女が泣きながら追いすがってきた。富松の娘の、お勝という少女だった。
富松がお勝に何か言い聞かせるように話しかけ、喜八に促されるまま、歩き始めた。
ふと、富松と視線が合い、お絹は狼狽えた。
富松の深い緑の瞳は、真っすぐにお絹を捉えていた。恐怖とも何ともたとえようのない感情に、お絹はまるで瘧(おこり)にかかったように、身体を小刻みに震わせていた。
富松を売ったのは、他ならぬお絹だった。〝マムシ〝と異名を取る喜八に、富松がキリシタンであることを、お絹が知らせてやったのだ。
お絹はまだ世間知らずだった。キリシタンであることが露見すれば、また、喜八のような質の悪い男に一度捕らえられれば、どうなるかについては深く考えもしなかった。ただ、腹立ち紛れに、喜八に密告したにすぎなかった。
富松から眼を背けようとしたその時、信じられないことが起こった。
富松がフッと微笑んだのだ。
まるで、ふわりと花の蕾がほころぶように、富松は笑った。その微笑を見た瞬間、お絹は、震えるどころか、身体が金縛りに遭ったように動かなくなった。
男の顔には、憎しみや嫌悪といった負の感情は何もなかった。ただ穏やかな微笑が刻まれていた。
お絹はそれ以上男の顔を見ていられなくて、赤ン坊を背にくくりつけたまま、逃げるようにして自分の家へと駆け戻った。背後で響いていたお勝の泣き叫ぶ声だけがいつまでも耳に残って離れなかった。
「私があの人を―」
お絹が言いかけた時、お璃久はそっと首を振った。
「富松さんは、あなたを初めから恨んではいないと思うわ、お絹ちゃん」
だからこそ、穏やかな顔でお絹を見ることができたのだろう。
いかにも富松らしいと、お璃久は思った。
だが、なにゆえ、そんな彼が過酷な試練ばかり与えられなければならないのだろうか。
お璃久を言いようのない哀しみが襲った。
富松は自分を喜八に売った人間がそも誰か、その正体に感づいていたに相違ない。
恐らく、富松はあの何もかもを諦めたかのような、透明な微笑みを浮かべていたのだろう。富松のあの笑顔は諦めの微笑でもあり、許しの微笑でもあった。どんな酷い言葉で責められるよりも、それはお絹にとって激しい衝撃を与えたはずだ。
「まさか、こんなことになるとは思わなかったの。親分に連れていかれたって、すぐに帰ってくると思って、私、私」
お絹は皆まで言えず、泣きじゃくった。
「もう、いい。もう、いいのよ」
お璃久は号泣するお絹をそっと腕に抱きしめた。
その時、泣いているお絹の後ろから、一人の男が勢い余って転がり込んできた。
相当に急いできたものか、肩を激しく上下させている。
「お前は龍五郎さんのところの」
卯吉が驚いたように言った。
作品名:天の階(きざはし)~蒼穹のかなたに見たものは~ Ⅱ 作家名:東 めぐみ