出雲は空の国
『だが、おまえは地の娘。大宮司は空に住む。病の大宮司は地に降りることもなく、この先、おまえを知ろうはずもない』
キラの頬を伝わる雫が炎の光を反射して、逆に炎に照り返した。雫のまぶしさに炎のタタラ神は一瞬顔をしかめたが、すぐにもとの穏やかな笑を含んだ。
『かわいそうに、私のかわいい娘。火を使う娘。苦しむおまえを、私がどうして放っておけようか。私以外にだれがおまえを助けられようか。おまえの願いをかなえよう。私がおまえを大宮司に会わせよう。さあ、これから私が言うことを、よくお聞き。言う通りにすれば、おまえの思いは必ず成就されるであろう』
炎が大きく揺らめいた。キラは危ういほど炎に近づき顔を真っ赤にして聞き入る。炎のぶれにかぶった女の声の宣託が、キラに下された。
その夜、キラは杵築の里を飛び出した。暗闇の中、出雲の母河・斐伊川を目指す。斐伊川にたどり着くと、今度は川沿いにひたすら南下する。
夜の闇、風が吹くたびに大げさに揺れる木々、そして赤い目をした得体の知れない獣。でもキラは恐れなかった。キラは、何かにとりつかれたよう、わき目もふらず闇を駆け抜けた。
やがて日が昇っても、キラは走り続けた。いくつかの邑(ムラ)も通り過ぎる。邑人たちは、少女の真っ赤な顔とギラギラ輝く瞳に、気ふれの様相をみとめて、次々道を明け渡した。
キラは一心不乱に駆け抜けた。歯を食いしばって岩を登り、爪に土を食い込ませて丘を越えた。とうとう日が沈んでも、キラは視界の暗さに気づきもしない。夜風の寒さも感じず、闇が増すにつれ移ろう夜行鳥の鳴き声も、己の息遣いに打ち消されていた。
そうして真夜中、キラは怒涛の疾走を終え、目的地の恋山(シタイヤマ)にたどり着いたのだ。
恋山は、怪岩連なる大渓谷。遠い昔、女神が、言い寄る和邇(ワニ)を阻むために、川を岩で塞いでできた土地だと言う。
キラは、大渓谷を見下ろす岸壁にいた。
月の細い光が渓谷に差す。我を失い走り続けたキラだったが、谷の深さと怪岩をさすがに恐れた。走り続けた疲れが一挙に押し寄せて膝をつく。疲れと一緒に、闇や寒さや不気味な音が、すべて五感に戻ってきたのだった。
あたしは、なぜ、こんなところに?
すると、女の低い声が応えた。
『それは、おまえの恋の成就のため。さあ、恐れるな。落ちるのはたやすきこと。苦痛はひと時のこと。この試練を乗り越えれば、おまえは天へと運ばれ、大宮司の住まう空へと導かれる』
キラは空を仰いだ。今夜は月だけ見えて、星がない。うす雲がたなびき、その月さえも隠そうとしている。
杵築の大社の本殿も見えない。
空を仰ぎすぎた眩暈のせいか、それとも何かに押されたか、その判別もつかないまま、キラは崖っ淵によろめいた。キラは暗い宙を掻いたが、何も掴むことのないまま、谷底へ落ちていった。
怪岩に頭蓋が当たり、ぐしゃりと潰れた。ようやく胸の膨らみ始めた身体も、岩々にもてあそばれて、無残にえぐれた。月明かりでは、血の赤は映らない。黒い水が岩の上を広がるよう見えるばかりだ。
この小さな肉の破滅に、音はまったくなかった。夜の渓谷が音を吸い込んだのだ。代わりに、どこか女の笑い声にも似た風音が、谷中にこだましていただけである。
翌朝、めったに人の来ない恋山の渓谷では、川のせせらぎと朝だけに鳴く小鳥のさえずりだけが響いている。
太陽が天の中央を占める頃、ようやく渓谷に降り立ったのは、一羽の黒い鳶だった。
鳶は、怪岩に珍しく飛び散っている肉片をついばんだ。乾いてこびりついた血は、もはや鳶を汚さない。鳶は、夢中になってそこら中の肉片を食べた。
――『恋山の渓谷に飛び降りるのだよ。そうすれば、砕けて散ったおまえの骨や肉片や内腑を、鳶が食べてくれるだろう。鳶がおまえを食べてその腹に入れるほど、おまえの魂も鳶の中に取り入れられる。鳶の腹がおまえで満ちれば満ちるほど、おまえは鳶の一部になり、やがて全部になるのだ』
気がつくと、キラは鳶の腹の中にいた。腹は、血液の流れに呼応してうごめく。血の熱が腹に通って温かい。キラはとろりと心地よさに浸る。
このまま眠ってしまおうかと思ったが、あとからあとから「キラ」が腹に落ちてきて、次第に鳶の腹は、「キラ」でいっぱいになった。すると、血が通うのは鳶の腹ではなくて、バラバラのはずの「キラ」自身に、熱い血が通い、力が湧いてきた。
なんだかうずうずした。そしてキラは思い出す。タタラ神の最後の宣託を――『おまえはやがて鳶になる。鳶の翼で行くが良い。恋山を越え、斐伊川を越え、八雲の峯々を越えて、杵築の大社本殿、慕う大宮司のもとへまっしぐらに飛んで行け』。
キラは、飛び立った。野生の鳶の翼を借りて。
鳶の翼は軽やかだ。恋山の渓谷から遥か上空に浮かぶと、あとは風に乗るだけで良かった。
気ふれでも一晩かかった道のりは、空からは山の稜線に隠れて見えない。平地に広がる黄色い稲穂が、深遠な森と人の住む世界とを分け、二つの世界が鮮やかな対照となって大地に浮き上がる。
宍道湖へ向かって巨大な蛇がうねっている。斐伊川だ。昨夜のキラは、この巨大な蛇の腹沿いに邪魔な岩を越えて恋山を目指したが、今、空は雲一つなく青いきりで、何の隔てなく杵築へまっすぐ開かれていた。
ほんの少し飛ぶだけで、30尺もある杵築の大社は見えてきた。八雲の峯々の威光を背に受け、相も変わらず神々しい。
キラは、かつて働いていた炊事場を見下ろした。つい二日前のことなのにもう懐かしい。
かつてキラは空を見上げて嘆いていた。でも今、キラには翼がある。
ついに大鳥居を越え、禁域の松の参道に入った。空のキラを諌める者はなく、参道は瞬く間に翼の後ろにおいていかれる。
本殿につながる欄干をも遥か真下に捉えて、キラは高く高く上昇した――今行くわ。今。
本殿の奥の間、一人の宮司がひれ伏していた。
ひれ伏した先には一枚の紙と、横たわる老人がいる。
老人は、絹の布団と衣に覆われ、静かに目を閉じている。肌の青白さに命の息吹が絶えているかに見えたが、真っ白な長い髭が口元で微かに揺れた。
「炊事場の女どもの小屋にて見つかりました。これが、先日の虫干しの際、風にさらわれた最後の一枚、大宮司様の若かかりし頃の映し絵でございます」
老人の皺だらけの瞼が開き、黒い瞳が覗いた。宿る力は弱いが潤いは失われていない。
「最後の一枚は、あの絵であったか。戯れに、唐の絵師に描かせた。今や昔日の形見にしかすぎない。捨てておけば良かったものを」
「それが、これが舞い落ちた地で騒ぎがございました。下賎な者どもの世迷い話に過ぎずといえ、地上ではすっかり噂になってございます。
大宮司様の絵姿を拾った娘が死にました。気狂いとなり、一晩中野山を駆け抜け、恋山の渓谷に身を投げて自ら命を絶ったのでございます。
そのあと、娘の枕の下からこの絵が見つかったものですから、一つの憶測が、勝手な噂となって飛び交いました。娘は『贄』となった、つまり生神様へ自らの命を捧げたというのであります」
大宮司はため息で髭を揺らした。