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出雲は空の国

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13になった年、キラは、杵築の大社にやって来た。

出雲国造(クニツクリ、大和政権下の地方首長)への賦役として、国造本拠地「杵築の大社(出雲大社)」の炊事場に呼ばれたのだ。

同じように集められた雑役夫たちの食事の用意が、キラの仕事だった。宮司たちの食事はキラのような下層民が触れることは許されない。豪族出身の巫女たちが用意し、祓い清めて献上する。

炊事場も寝起きする小屋も、大社の裾野とはいえ鳥居の外にある。鳥居から先は宮司や巫女だけが立ち入る聖域だ。

杵築の大社へのご奉公でありながら、大社は、百姓娘のキラには別世界なのだった。

ただ、本殿は、炊事場からもよく見えた。一里先からもくっきり浮かび上がっている。

なにしろ本殿の高さは30尺(約90メートル)ほどもあり、生い茂る境内の松の木を越え、大鳥居を越え、背にする八雲山に迫る勢いでそびえている。

三本の巨木をそのまま金輪で縛って設えた九本の宇豆柱が、揺らぎなく本殿を支える。地上とは長い長い欄干でつながれ、高位の宮司や巫女だけが、毎日欄干を渡って高い高い本殿を目指した。

もちろん雲の高さにはおよばないが、霧のかかった日などは、欄干の途中で振り返り地上を見下ろすと、地上が霧の影に遠く沈んで、あたかも己が雲の中にいる錯覚を起こすという。

その高い高い本殿に住まうのが、出雲国造こと杵築の大社の主、大宮司だ。

大国主命(オオクニヌシノミコト、記紀神話の神の一人)を祭り奉る大社の頂点にいて、天穂日命(アマノホヒノミコト・記紀神話の神の一人)の子孫を名乗り「生神様」と崇められている。

儀式以外ではめったに地上に降りることはない。たまに降りても生神ゆえに土に足をつけてはならず、すぐ隣の拝殿にさえも輿に乗っていく。

最近は病を患い、儀式を執り行うこともできない。もうずっと長い間、地上には降りていないらしい。

しかし、国造が病であることは、宮司も民も口にしない公然の秘密である。生神が病むはずがないのだ。そのようなことを言うのは不吉この上なく、不敬にもはなはだしい。

生神は、もう長いこと、山々と肩を並べた本殿に引きこもっている。たまに身体の具合が良いときは、御簾を上げて青空の気をいっぱい吸い込み、遥かに見える、かつて神々の国譲りが行われたという稲佐の浜と海を、見やっているのかもしれない。

キラは、そんなことを想像さえしなかった。本殿も生神も、尊く崇高で高みにありさえしているだけの、実体のある幻のようなものだ。

裸足の裏に土をつけてひたむきに働くことが、キラのすべて。空を仰ぐこともなかった。

ところがある日、遥か遥か頭上から、「それ」は、ひら、ひら、ひらと、舞い落ちてきた。

「それ」を見るのも触るのも、キラにははじめてだった。麻よりもすべすべしていて、雲のように真っ白だ。隣国唐からもたらされたという「紙」である。

「紙」はさらに奇跡を内包していた。紙の中には、一人の凛々しい若者がいた。

若者は弓矢を引いている。肩が、腕が、表情が、紙には描かれていない的に向かって力を溜め、今まさに射放たんとする瞬間が描かれている。

キラは絵に魅入った。絵とはいえ、かつてこれほど美しい男を、キラは見たことがなかった。墨絵のなめらかな流線で描かれた若者の姿は、確かに清々しく、厳かだ。どこかこの世のものではない高らかさまで感じる。

が、キラは、ただ「きれい」と思った。きれい。とてもきれい。なんてきれい。

こんなきれいなもの、今まで見たことあったかしら。宍道湖のお天道様も、ここまできれいだったかしら。

神様も、こんなにきれいなのかしら。

絵の若者は、宮司と同じ衣をまとっている。首には、高貴な人だけが身を飾る勾玉を下げていた。

紙は、空から舞い落ちてきたのだ。

まさか。

キラは見上げた。大鳥居の向こう、青い青い空の中、杵築の大社が見える。高く高くそびえる本殿。その後ろを雲がゆっくりたなびいていく。

「生神様」

キラは、はじめて空に気がついた。


キラは、絵の若者が、生神――出雲国造だとすっかり思い込んだのだ。

――ご病気とは噂で耳にしていた。でも、こんなにお若いとは。

お気の毒に。こんなにきれいなのに。

キラは胸を痛めた。でもそれは、病人を憐れんでのことばかりではない。

絵姿の若者――出雲国造を思うと、キラは、炎から掬い出されたばかりのタタラ(鉄)の玉を飲み込んだような熱さに苦しんだ。

キラは、仕事中もぼうとすることが多くなった。だれが何を話しかけても聞く耳持たずで、食事も喉に通らない。発作的に起こる胸の痛みに苦しむとき以外は、一日をうわの空で過ごしている。

特に青空の美しい日は、杵築の大本殿を見上げて、はらりはらりと涙をこぼした。

はじめての恋。それが、こうも遠いなんて。

なんて畏れ多いことだろう。神様に恋焦がれるなんて。

夜も眠らず泣くキラを、年上の女が諌める。「そんなにだれかを思うことは、不吉だよ。かなわぬ念は、きっとおまえに災いとなって返ってくる」。

しかし、恋心はつのるばかりで、キラを苛むのだった。

――百姓娘のあたしが生神様のおそばにお仕えできないことは承知している。

でも、一目だけでもお姿を拝めたのなら。そして、一瞬でもいいから、あの絵姿の的を見入る目で、あたしのことを見つめてくださったなら。

泣き疲れて眠りに落ちると、キラはよく夢を見た。立ち入り禁止の鳥居を抜け、欄干を渡り、本殿を目指す夢を。

しかし、本殿にもう少しというところで、欄干が崩れ、キラは地上へまっさかさまに落ちていくのだ。

ある夜のこと。うなされるキラを、だれかの語りかけが眠りから引きずり起こした。

『キラ、キラ、お気づきよ、キラ。私の声にお応え』
キラは暗闇の中、目を凝らしたが、仲間たちはぐっすり眠りこけている。

「だれ?なぜ、あたしの名を呼ぶの?」

正体のない声が、女であることだけは分かる。

『炊事場へおいで。おまえと話すよ。炊事場へおいで』

言われるままに小屋を抜け出し炊事場へ行くと、かまどが突然燃え出して、闇の辺りを明るく照らし出した。

かまどの火は伸びたり縮んだりを繰り返し、やがて顔のような体裁を整える。

腰を抜かすキラに、炎はさっきの女の声で低く優しく語りかけた。

『驚くな。私はタタラの神。鉄を養う神。火の神。毎日、食物の煮炊きで火を使うおまえだからこそ、その声が私に聞き届けられた』

出雲は鉄の産地で、タタラ神は金屋古神とも呼ばれる製鉄の神だ。大国主とはまた別に、製鉄の民たちに祭られている。

「タタラの神様が、あたしなんかの前に、なぜ?」

いまだ震え止まらぬキラをあやすように、炎の声はあいかわらず優しかった。

『おまえの恋に苦しむ声が聞こえたからだよ。私はそれを憐れに思う。かなわぬ恋に身を焦がす、小さなおまえが憐れなのだよ』

キラは恐ろしさを忘れ、涙をこぼした。かまどの炎に手を合わせる。

「タタラの神様、どうかお助けください。生神様を慕うなど畏れ多いとは知りつつも、思いが止められないのです。せめて一度だけでもお目にかかりたい。そんな風に思うことが止められないのです」
作品名:出雲は空の国 作家名:銀子