勇者と少女
「大丈夫。ここの線量は、それほどでもないよ。チェルノブイリの事故は、もう大分前の話だから」
俺は微笑んだ。嘘だった。年月を経て、消えるものもあれば、蓄積するものも、ある。しかし俺はここを今出て行くわけにはいかなかった。
女の子は、ぱっと明るい顔になった。
「うん。パーパも言うの。ここは全く危険なところじゃないって。溜まり水を飲まないとか、歩いて行っちゃいけないところにいかないとか、少しのことに気をつければ、何にも怖くないもん。魚だって、茸だって食べるよ」
俺は曖昧に笑った。少女の美しい心を汚したくなかったから。
「ひとを探しているんだ」
俺は言った。女の子は首を傾げた。
「取材の人?じゃなかったら、ここには誰も来ないよ」
俺が探す人間は、一目見たら忘れられない容姿を持っている。女の子がこう言うからには、本当に見ていないに違いない。
「その人の名前は何というの?」
無邪気に、親切に少女は聞いてきた。俺は、胸につかえた錘を押し下げるようにして、声を発さなければならなかった。
「…ディヤーヴォル」
それを聞いた途端、女の子はひっと息を飲んだ。
「それは、名前?」
「いいや。渾名(あだな)だよ。本当の名前は、知らない」
女の子の震える声に、俺は安心させるように笑った。
「お兄さんは、警察か、司祭様なの…?」
どちらでもないよ、と俺は首を振った。
「その人は、悪い人なの…?」
その問いに、俺は無言で女の子を見た。
悪い人。
人格のことはわからない。しかし、あいつは、俺にとって絶対的な「悪い人」でなければならない。どうしても。
『魔王(サタン)』。そう呼ばれるものがいる。
この地球を滅ぼさんとする悪い奴だ。
俺は、その魔王を、殺さなければならない。
ずっと、追いかけてきた。いろんなところに行った。いろんなものを見て、いろんな事を知った。けれど俺はただ奴を追った。ひたすら追いかけ続けた。追って、追って、追って。
ふと立ち止まった。
小さい頃、俺は、勇者になりたかった。絶対悪を倒す正義の味方でありたかった。
しかし今、俺は走る意味がわからなくなっている。やるべきことはわかる。やらなければならないこともわかる。しかし、その理由が…強固たる意志が、辿るべき足下の道が、俺には今見えない。
荒廃した大地、荒んだ人の心、争う命、人は奪い合い、誰かを呪いながら生きている…。
もう、手遅れではないのか。この地球は、元に戻るのか。自然も、人の心も。
地球や他の動物にしたら、人間こそが悪だろう。
ならば俺のしようとしていることは間違いではないのか。汚れた地球、汚れた人間を滅ぼそうとする「魔王」は、人間以外にしたら「救世主」に違いない。
人間ですら暗く澱(よど)んだ世界を見て一度は思うはずだ。昔のような綺麗な地球が見たい。心の底から明るく笑いたい。この世界は、もう、取り返しがつかないところまで来てしまったのかもしれない、と…。
正義は一体、どこにあるのだ。
「…ここの、自然は元に戻ると思う?」
俺は女の子の質問には答えずに言った。
「戻るよ」
女の子は、躊躇なく言った。
「もうね、百年もしたら、ここは地球上で一番綺麗なところになるって。放射能はみんな消えてなくなって、人もみんな戻ってくるって」
にこにこと女の子は笑っていた。誰かから、おそらくは彼女の家族から繰り返しそう聞かされていたのだろう。淀みない声だった。現実として、ここには彼女の家族以外は、誰ひとり住んでいないにもかかわらず。
「…どうして、ここに住んでいるの?ここが『ゾーン』であることを知っているのに」
「ここは、生まれた土地だから」
俺がそう聞くのが不思議で仕方がないように、彼女は首をこてんと倒した。
「ここじゃなくても、もっと緑が豊かで、命を脅かす放射能も少なくて、住みやすい安全なところが沢山…」
俺はふいに声を詰まらせた。
なんだか色々な感情がこみ上げてきて、自分が言っていることが、正しいのかわからなくなっている。
世間一般では、俺の言うことは確実に「正しい」筈だ。しかし、この少女にとっては、きっと俺の言葉こそが「間違っている」のだろう。
正しいことは、何だ。間違っていることは、何だ。誰か教えてくれないか。「悪は倒す」。しかし、その悪がわからないのだ。
「魔王」こそが悪だと。倒すことが正義だと。誰か、俺に言ってくれ…。
「ここが、あたしが一番住みやすいところ」
女の子は白い息を吐きながら、純粋で曇りのない瞳で俺に言う。
「ここが、あたしにとって一番安全なところ」
俺は戸惑いながらもじっと少女を見た。少女は本心から言っている。『死のゾーン』とまで呼ばれ、外部からの立ち入りは厳しく制限され、接触も飲食も禁止され、木々は赤茶けて枯死し、放射能降り注ぐこの土地が、この世界で一番安全で、一番住みやすいところだと。
「だから、あたしはここを守って、ここで生きて、ここで死ぬ」
少女の声は静かに、迷いなく俺を射た。
「そうか」
不思議と荒れていた俺の心も静かに凪いでいた。いや、少女のその声が、荒くれた俺の心の舵を決めた。
地球はもうだめだと、そういう声も確かにある。地球を見捨て、月へ、宇宙へ逃げている人間も、もちろんいる。それを批判する声もある。ただ、俺はそういう道もあって良いと思う。
どこで生きるのかは、自分で決めれば良い。どこで死ぬのかも、自分で選べば良い。
生きたいと足掻くのも、死ぬとわかっていて動かないのも、自由だ。
人は皆自由だ。自由なのだ。俺も、この少女も。自分の意思で、何だって出来る。
「きみに会えて、よかったよ」
俺は少女のちいさな手を包み込んだ。手袋越しでも、奇妙に短い指は5本以上あるのがわかった。数代にわたって死のゾーンに住み続けている代償をこの子は確かに払っている。それでも言うのだ。ここで生きて死ぬと。その汚れなき真っ直ぐな心で。
少女は恥ずかしそうに手を引っ込めると、にこりと笑った。
「探している人が見つかると良いね」
「ありがとう」
俺は少女と別れて手を振る。
きっと、長生きは出来ないだろうあの少女の命が、生きると言ったあの少女の命を、俺は守らなければならない。
放射能によって朽ちることを受け入れた少女、地上で暮らす人、地下で生きる人、この地球。その全てを俺は守らなければいけないのだ。なんとしても。
ひとつひとつの命を、生きると誓った希望が、外部からの圧倒的な力で断ち切られるなんてことがあってはいけない。
俺は立ち止まり後ろを見た。