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天つみ空に・其の六~白妙菊の約束~

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 どうやら妙乃は話し上手らしく、いつしかお逸は妙乃の話に引き込まれている。
「ええ、葉が真っ白なんですよ。だから、白妙菊っていうんです」
「まあ、葉が真っ白だなんて、本当に変わってるわ。でも、私には全然想像がつかないけれどね」
 お逸と妙乃は顔を見合わせて笑う。
「葉っぱが白い毛で覆われているから、真っ白に見えるんですね。私がもっと小さい頃、普通、葉っぱは緑色なのに何で白妙菊の葉っぱだけは白なのかって父に訊ねたら、父が笑って言ってました。多分、白い毛の下に緑色の部分があるんじゃないかって話してましたっけ」
 妙乃の眼に涙が溢れ、白い頬をつたって落ちていった。
 一面に白妙菊の花が群れ咲いた河原に二人並んで座り、いつまでも飽きもせずに川面を眺めていたあの日。夏もそろそろ終わりに近づいた午後のことで、陽光を受けて乱反射する川面が眼に眩しかった。
 翔太は妙乃にはっきりと言ったのだ。
―おゆきちゃん、大人になったら、俺の嫁さんになってくれるか?
 あの時、翔太は十三、妙乃は八つだった。子ども同士の他愛もない約束といえばいえたけれど、妙乃は翔太のこの言葉を何よりも嬉しいものに思った。子どもなりに真摯なまなざしで問いかけてくる年上の従兄に、妙乃もまた、幼いながらも真剣に頷いたのを今もよく憶えている。
 白い葉は遠目に見れば、雪を戴いているようにも見える。雪をおいたような真っ白な葉が重なり合った中、花の黄色が映え、より鮮やかに際立っていた。そのときの映像が鮮烈な記憶となって、今も色褪せぬ花のように妙乃の胸の奥でひっそりと咲いている。それは、妙乃にとっては宝物にも等しい想い出であった。
 妙乃は手のひらでごしごしと涙をぬぐう。
 そんな仕草はやはりまだ十一歳の子どものものだった。
「お逸さんが拾った手紙の次に届いた手紙には、こう書いてありました。帰ってきたら、いずれ一緒に所帯を持とうって」
 そう言いながらも、妙乃の眼からは次々に大粒の涙が落ちてくる。
 お逸はたまらず、妙乃を引き寄せた。小さくて華奢な身体は、いまだ春を知らぬ蕾のままだ。お逸は妙乃をしっかりと抱きしめると、妙乃のつややかな髪を撫でてやった。真吉がいつもしてくれるように、優しく労りを込めて。
 お逸の指に力がこもり、髪がわずかに引っ張られる。妙乃は何か口にしようと思ったが、それはまるでうたかたのように、唇に載せる前にぱちんと消えた。
 妙乃が小さなあくびを洩らすのを見て、お逸は微笑む。
「ここへ来てから、ずっと気を張りっ放しでしょ。きっと妙乃ちゃんは自分が思ってる以上に疲れていると思うわ。眠たければ眠っても良いのよ?」
「でも、おしがさんや東雲姐さんに叱られてしまいます」
 妙乃が真顔で首を振るのに、お逸はそっと片眼を瞑って見せた。
「大丈夫、四半刻くらいなら、何とでも言ってごまかせるから」
 それからほどなくして、妙乃は桜の樹の下で横座りになったお逸の膝を枕にした。本当に構わないのだろうかと思いながらも、春の陽だまりの中では眠気の方が勝り、妙乃はついに眼を閉じる。
「心配しないで、せめて今だけはゆっくりと眠りなさい」
 優しく、それでいながら淋しげなお逸の言葉が、心の奥底に落ちてくる。
 お逸の膝の上は、ほんのりと温かくて、その優しい温もりは、妙乃の懐かしい記憶をそっと揺さぶり起こす。母の膝枕でうとうとしながら昼寝をしたのは、いつの日のことだったろうか。
 うとうとしながら妙乃は自問自答したけれど、応えは出てこなかった。
 安らかな寝息を立て始めた妙乃を起こさぬよう細心の注意を払いつつ、お逸はそっと頭上を振り仰ぐ。つい今し方までそこにあったひとすじの雲は、いつしか見当たらなくなっていた。
 雲も花も刻も人も、たえず川の流れるように流され動いている。この世の中で形を変えず、うつろうことのないものなど、およそありはしないのだ。ならば、こうして真吉に逢えぬ辛い日々もいずれは終わり、いつかきっと、真吉と共に生きてゆける日が来るだろう。
 お逸は涯(はて)のない蒼空を眺めながら、そう考えて自らを励ました。

 その日の夕刻、お逸は妙乃を連れて二階の東雲花魁の部屋を訪ねた。むろん、東雲の大切にしていた花器を割ったことを正直に話し、詫びるためである。
 お逸から一部始終を聞いた東雲は淡く微笑んだ。
「その話なら、もうとっくに紫乃から聞きなんしたえ」
「私などが出しゃばる類の話でもないとは思ったのですが、妙乃ちゃんが随分と落ち込んで気にしていたものですから」
 お逸が控えめに述べると、東雲が声を立てて笑った。
「あちきが何ゆえ、あの花器をこうまで大切にしていたか、お前には判りんすか?」
 〝いいえ〟と正直に応えると、東雲は少女のように悪戯っぽい表情になった。
「あれは松風さんが餞別にとくれなんした花器。お逸ちゃん、松風さんは誰にでも隔てなく優しう接したお人でありんした。その松風さんのくれなんした花器を割ったからといって、妙乃を叱れば、松風さんはかえって哀しむでありんしょう。あちきは松風さんの気持ちを無下にするようなことはしとうはありいせん」
 お逸は東雲のその言葉に胸を突かれた。
 東雲が後生大切にしていた花器というのは、かなり大ぶりの青磁の壺で繊細な模様が入っている見事なものであった。
 その壺はかつての松風の馴染みの一人、呉服太物問屋の隠居が松風に贈り、松風自身も気に入って大切にしていたものだと聞いていた。
「何を鳩が豆鉄砲食ろうたような顔をしなんすかえ? あちきだって、松風さんほどの太夫の良さは十分判っておりいすし、尊敬もしておりんすよ」
 そう言って艶やかに微笑む東雲の眼許からは以前あった険が取れて、別人のようにやわらかな表情になった。その変化は東雲の気性にもはっきりと反映され、東雲太夫は最近ますます女を上げたと人気は鰻上りの一方だ。
 負けん気の強い烈しい気性の角が取れ、丸くなった―、つまり女らしく優しくなったと、新しい客もつくようになり、今や東雲が花乃屋の一番の売れっ妓であることは間違いない。東雲の優しさは客に対してのみではなく、禿やお逸のような下働きの女中たちにも向けられるようになったことも大きな変化だった。
 そろそろ陽暮れも近い。
 客を迎える支度をしている真っ最中だという東雲の邪魔をするのも申し訳なくて、お逸は妙乃を残し、自分はそのまま東雲の部屋を退がった。
 東雲の今宵の客は井筒屋という小間物問屋の若旦那だという。男ぶりも良く、病がちの父親の代わりとして実質上店を切り盛りしているのはその倅である若旦那だとも聞く。
 この若旦那と東雲が互いに本気だと囁かれ始めたのはまだ今月初めのこと。若旦那が東雲の敵娼となってほどなくのことだ。それでも、若旦那を迎えるために鏡に向かって化粧をする東雲の表情は生き生きと輝き、その噂が真実(まこと)ではないかと思わせるほど美しかった。
 恋もまた、人を変える。一階へ続く階(きざはし)をゆっくりと降りるお逸の耳に、夜見世の始まりを告げるすすがきの三味線の音が響いてきた。