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天つみ空に・其の六~白妙菊の約束~

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 夜が始まる。今宵もまた、この廓で、吉原という特別な場所で一夜限りの徒花が幾つも咲く。本気の恋、偽りの恋、幻の恋。恋にも色々あるけれど、吉原で生きる女は、相手(客)に惚れさせても自分が男に惚れたらおしまいだといわれている。それは廓(さと)で生きる女の哀しい宿命(さだめ)であった。
 明日こそは真吉に逢えるだろうか。
 お逸はそんなことを考えながら、次第に賑わいを増してゆく廓の喧噪に耳を傾けていた。

 その夜半のことである。
 一階の女中部屋で眠っていたお逸が厠に行った帰り道、庭を白いものがふわりとよぎるのが夜目にもはっきりと見えた。思わず身体中の膚が粟立つ。
 お逸はそれでもなお眼を凝らして、その怪しい者の正体を見極めようとして、ハッと息を呑んだ。
「―妙乃ちゃんッ?」
 お逸は裸足であることも忘れて、廊下から庭へと走り降りた。
「一体、どうしたの? こんな夜分に一人で」
 お逸が勢い込んで訊ねても、妙乃は哀しげに首を振るばかりであった。
「お逸さん、お願い。私を見逃して!!」
 そのたったひと言で、お逸はすべてを悟った。
「妙乃ちゃん、もう一度落ち着いて、よく考え直すのよ。もし見つかっちまったら、どうなるか判ってるの?」
 お逸は夜着一枚きりの妙乃の小さな身体を揺さぶった。だが。
 妙乃の瞳には決意と覚悟の色がはっきりと浮かんでいる。
 二人は桜の樹の下で向かい合い、互いの顔を見つめ合った。
「お願い。もう一度だけ、私を見なかったことにして下さい。後生だから」
 そこまで言われて、お逸には最早、妙乃を止めることはできなかった。
「本当に良いのね?」
 それでも、もう一度念を押さずにはいられない。真っすぐに見つめるお逸のまなざしを妙乃もまた、ひたむきな眼で受け止める。
 それは紛れもなく恋する女、切なく烈しい恋に身を灼く女の瞳であった。
 ああ、妙乃は間違いなく恋を、あの翔太という手紙を書いた男に恋をしているのだなと、この時、お逸は思った。
「達者でね。無事を祈るわ」
 お逸が想いを込めて見つめると、妙乃もまた、真摯な眼で頷いた。
「お逸さんも」
 それ以上の言葉は要らない。二人はなおもしばらく互いに見つめ合い。
 やがて、妙乃が想いを振り切るかのような表情でくるりと踵を返した。
 お逸は、妙乃の姿が庭を突っ切り裏口の方へと消えてゆくのを茫然と見つめていた。
 我に返った時、既に妙乃の白い夜着姿は夜陰に紛れて、どこにも見当たらなくなっていた。
 後には、ただ、ひっそりとした夜がひろがっているばかり。
 お逸は、ゆるりと視線を動かす。
 群青色の空に、ふっくらと満ちた月が煌々と輝いている。まだ花をつけぬ桜の樹の上に昇った月は蒼褪めて、この世のものとも思われぬほどに妖しいまでの美しさに輝いている。

―ひさかたの天つみ空に照る月の
  失せむ日にこそ 我が恋止まぬ―

 円い月を見上げるお逸の脳裡に恋の唄がふっと浮かんだ。
 妙乃が生命賭けで挑んだ脚抜け―、十一歳の少女がそもいずこに向かおうとしているのかは明白だった。どうか無事でいてと、あの子の幸せを祈らずにはおられないお逸であった。
 その後、妙乃の消息は杳として知れない。
 折角買い入れたばかりの禿が脚抜けしたと知り、甚佐は若い衆やその他の妓楼の助けをも得て大人数をもって妙乃のゆく方を探させたにも拘わらず、それこそ、失踪した禿は雲か霞のごとく消えてしまったのである。
 甚佐はむろんのこと、妙乃の生まれ故郷である村にまでも探索の手を伸ばしたが、重い病にかかっていたという妙乃の弟は既に亡くなった後で、妙乃が伯母夫婦の許を訪れた形跡は全くなかった。
 ただ、妙乃の失踪とほぼ時を同じくして、伯母夫婦の一人息子が突如として村から逐電していた―。
 だが、妙乃と翔太が相惚れの仲だと知る者はおらず、この二人の失踪は偶然のものとして片付けられ、気に止める者さえいなかった。


 妙乃が廓から忽然といなくなった翌朝、江戸では、その年初めての桜が咲いた。


 脚抜けした遊女は大抵はすぐに追手に捕らえられ、連れ戻される。わずか十一歳の少女がまんまと脚抜けに成功するとは誰も考えたこともなく、妙乃の脚抜けは、まさに晴天の霹靂であったといえよう。
 しかし、妙乃は花乃屋の楼主甚佐に挑戦状を叩きつけたわけでもなく、脚抜けは不可能とする廓の常識に挑んだわけでもない。
 ただ、自らの宿命(さだめ)に果敢に挑み、幸運と成功をその手で掴み取ったのである。
 運命は受け容れるだけのものもではなく、立ち向かい自ら切り拓いてゆくものなのだ。
 お逸は、五歳年下のこの少女に、その大切なことを教えられた。
 妙乃の脚抜けの後、吉原の廓という廓では遊女の脚抜けに対する取り締まりが一段と厳しいものになったと伝えられる。
                 (了)