ノアの箱庭
でも配合されるなら、きれいな者同士が良いから、ノアとメアリーが一緒かな…。
わたしは一呼吸おいて視線を逸らした。いつも、目を逸らすのはわたしの方。ノアの視線はわたしから動かない。ノアはあまり喋らないけれど、真っ直ぐ見つめてくる。
「さあ、試食はここまで」
マリーの言葉にみんなが動き出す。ノアの視線もマックスの背に遮られる。
「リリー」
マリーに呼ばれてわたしは立ち止まった。
「本を持ってきて欲しいの。場所はわかるわね?」
わたしは頷く。
「ひとりじゃ多いかしら…誰か連れていってらっしゃい」
そう言ってマリーは慌ただしく去って行った。
「ジャッ…」
「リリー」
わたしは近くにいたジャックに手伝って貰おうと声をあげかけたけれど、さわやかな秋風のような声に遮られた。大きな背に、きれいに整えられた髪。
ノア。
ノアはわたしの手を優しく掴むと、歩き出した。手伝ってくれるというのだろう。
「ありがとう」
どういたしましてというように、ノアはわたしを横目で見て頷いた。
本が置いてあるところはすぐ近くだ。整然と並べられた本がおいてある部屋に踏み入った時、わたしはなにかに爪先をぶつけた。
それは茶色く変色している古い古い紙の束だった。どこかの棚から落ちてしまったのか。
わたしはそれを拾い上げると、表紙を見た。絵や文字が書いてあったのだろうが、もう判別できない程に擦り切れている。
「旧約聖書」
ノアがわたしの手元を覗き込んで言った。
「わかるの、ノア」
わたしはそれをぱらぱらとめくった。
「どんなことが書いてあるのかな」
わたしは開いているところをノアに見せて笑った。わたしたちは字を読めない。読む必要がないから、教わらないのだ。
「And Jehovah said, I will destroy man whom I have created from the face of the ground…」
ノアはすらすらと言った。わたしは驚いた。ノアは字が読めるのだ。
「ノア、読めるの。どんなお話?」
ノアはわたしを見た。一拍おいて、その唇が開いた。
「時に世は神の前に乱れ、暴虐が地に満ちた。神はこれを絶やそうと決意した。そこで神はノアに言われた。わたしは地の上に洪水を送って、命の息のある肉なるものを、みな天の下から滅ぼし去る。地にあるものは、みな死に絶えるであろう。あなたは子らと、妻と、子らの妻たちと共に箱舟にはいりなさい。ノアは全て神の命じられたとおりにした」
「ノア?その本に出てくる人はノアというの?わたしたちと一緒ね」
ノアは何も言わなかった。
「それから、どうなったの?」
「洪水が起きて、全てが死に絶えた。箱船に乗ったノアの家族と生き物を除いて」
「世界は綺麗になったのね」
「リリー」
わたしがにこりと笑ったのを見て、ノアはひとつ瞬きをした。
「綺麗になっていたら、地球はこんなに放射能汚染が進んでなどいない」
「そしたらまた洗い流せば良いのじゃない?違うの?」
わたしが首を傾げると、ノアはまたわたしをじっと見た。
ノアの視線。それはいつもわたしを捉える。
「ねぇ」
ノアはゆっくりと旧約聖書を閉じた。
「ノアはいつも何を見ているの」
わたしはひとりごとのように言って、旧約聖書を受け取った。自分の中の疑問が言葉としてぽろりと溢(あふ)れただけで、ノアの返事は最初から期待していない。この旧約聖書が本棚からこぼれたのかと一冊分抜け落ちているところを探すけれど、あいているところはどこにもないので、わたしはそれを持って行ってマリーに聞くことにした。ノアの視線がわたしを追う。
わたしは本来の目的であるマリーから頼まれた本をみつけた。
「ノア、これを持って行くのを手伝って」
ノアは頷いて、わたしの指さす本の山に手をかけた。
「おはよう」
「おはよう」
わたしたちは笑いながら朝の挨拶を交わす。
「ねぇ、ジャックは?」
ふとマーガレットが言った。
いつも朝食が楽しみだからと一番に起きてくるジャックが、確かに今日はいない。
「寝坊かな」
「マリーも今日は遅いね」
マリーは朝食の湯気も消える頃、額に手の甲を当ててこちらに歩いてきた。
「遅いよマリー」
「みんなでもう食べちゃおうかって話してたんだよ」
「ねぇジャックも寝坊みたい。いま誰が起こしに行くか決めてたところ」
「マリーどうしたの?青い目が、私たちみたいに、真っ赤…」
「ジャックは、死んだわ。今朝」
マリーがそう言って、わたしたちは一瞬、顔を見合わせた。
「だって、ジャックはまだ…」
「二十歳になりたてだったわね。でも『ノア』が二十五歳で死ぬのは目安だと言ったはずよ」
マリーはいすを引き、暫(しばら)くジャックのために用意されていた朝食を見つめた。早起きするジャックのための朝食は一番はやく作られる物で、とっくに冷え切っていた。
「今日は、店は開かない。みんなで、花輪を作りましょう。ジャックのために」
みんなはわたしたちのなかで一番若いジャックが死んだことに驚きをうけたけれども、すぐに元通りに落ち着いた。だってジャックは少しはやかっただけ。わたしたちはみんなもうすぐ死ぬのだから。
「ねぇマリー」
わたしはマリーに向かって言った。
「『ノア』がみんないなくなったら、マリーはどうするの」
「そう、ね…」
マリーは困ったように笑った。
「どうしようかしら」
「みんな死ぬ前にきっと新しい『ノア』が産まれるから大丈夫よ。ね、マリー」
アミが笑って言った。
「そう、ね…」
マリーは手を伸ばしてアミの頭を撫でた。
「マリーどうしたの。何で泣くの」
「マリー?」
みんなが朝食を食べる手を止めてマリーの周りに集まってきた。
マリーは怒ったような顔で、涙をこぼしていた。
「マリーどこか痛いの?」
「…いいえ。みんな、わたしは大丈夫だから食事を続けて」
マリーが食事を続けてと言うので、みんなは席に戻って食事を続けた。
「あなたたちを…感情が育つ前から閉塞的な場所に縛り付けるという判断をした国際連盟をわたしは一生恨み続けるでしょう」
「マリーどうしたの?わたしたちしあわせよ」
「そうよしあわせよ。だってみんながいるもの。ね?」