ノアの箱庭
ノアの箱庭
茶色くぼろぼろに擦り切れた紙の束がわたしの手を離れ風と共に飛んでゆく。
どこまでも。
遙か遠く、ひとも誰もなにも届かない彼方へ。
そのさきをわたしはみることができないけれども、ねぇノア。
わたしたち、ずっといっしょね。
わたしの呼吸が止まるまで、ずっとこうしていて。
ノア。
わたししあわせよ。ずっとしあわせ。かなしいことなんてなにもない。
だから、ノア。ノアはノアのいきたいところに、いって…。
わたしたち、待ってるから。いつでも。
ここで、待っているから。
「焼けた?」
「焼けたみたい」
「わぁ…」
小鳥の囁きのような声が広がった。
わたしはカタンと白いトレーを大理石のオーブンの中からとりだした。
トレーの上には三個の長方形のお菓子。バターをパイ生地で挟んで、一番上に紅茶のシュガーをかけたもの。
わたしたちはみんなそれをはじめて見たけれど、マリーは「焼くとパリパリしてとてもおいしいのよ」と言った。だから焼くとパリパリとしてとてもおいしいのだろう。
こんがりと黄金色に焼けたそれを、わたしは紅茶と一緒にみんなに配る。
オーブンは三個。みんなに行き渡るにはすこし、数が足りないみたいだ。女の子たちに先に渡す。わたしのぶんも、あとまわしだ。
さくりと軽い音を立てて噛んで、みんながおいしいと笑う。マリーが言った。売ってしまうなんてもったいないかなと。
でもとわたしは思った。今日の商品はこれなんだから、仕方がない。
わたしは次が焼き上がるまでじっと待つ。そんなに時間はかからない。
日差しは暖かく荒廃した地上を包み、わたしたちにやわらかく降り注ぐ。あちこちに転がる苔生(む)した白い大理石が少し眩しいけれど、それも心地良い。
「本当に、あなたたち『ノア』はすばらしいわ」
髪をかき上げながら、しみじみとマリーが言った。
わたしたちはぼんやりとマリーに目を向けた。
マリーは、いつもそう言う。『ノア』は素晴らしい、どんな貴重な宝石すら及ばない至宝だと。
研究者のマリーからみたらそうかもしれない。
四十年前、戦争を繰り返し、放射能汚染が進み、荒廃してしまった地球では人類の突然変異個体が産まれ始めた。
それらは一様に、髪と肌は抜けるような白色、瞳はガーネットのような緋の色を持っていた。
従来の色素欠乏症(アルビノ)と違うところは、それらはすべて、恐ろしく整った容姿で産まれてくること。そして総じて短命だった。二十五歳ほどで尽きる命。
いつ、どのような人種から、どうして生まれてくるか全くわからない。人類は、その突然変異個体を『ノア』と名付け、『ノア』と確認され次第、国際連盟への提出を人類総てに義務づけた。
そうして提出され、または回収された『ノア』は一カ所に集められ、数人の研究員と共に『箱庭』と呼ばれる場所で暮らすことになる。その場所は十重二十重(とえはたえ)に隠された。
今、いる『ノア』は、八体。女性と男性が半々だ。
「ノア」
メアリーがみんなの輪のなかで微笑んだ。
いつの間にかわたしの横に立っていたノアは無言でメアリーに顔を向けた。
ノアはいつもあまり喋らない。
わたしは目の前のオーブンを開けた。焼けたようだ。香ばしいにおいがする。メアリーが呼んでいるし、ノアには先にひとつ渡す。
ノアと目があう。
ふたつ瞬きをして、わたしは他の皆にお菓子を配るためにノアに背を向けた。
「ジャック」
「悪い。さんきゅ」
やんちゃなジャックはくしゃりと笑って一口でお菓子を食べてしまった。
もう一回焼こうかなとわたしがトレーを手に取ったとき、アミが横からいいよと笑った。
「リリーも食べなよ。おいしいよ」
それはおいしいだろう。マリーがそう言うのだから。
「本当に、あなたたち『ノア』は宝石なんて目じゃないわ。飾っておきたいぐらいよ」
マリーの熱弁はまだ続いているみたいだ。
『ノア』はとてもとても美しい、らしい。でも『ノア』であるわたしにはよくわからない。わたしの顔なんて自分で見たことがない。さらりと風が通り過ぎて、日の光を弾くわたしの長い髪がきらきらと腕に沿って流れた。
わたしたち『ノア』の日常は、マリーたち研究員に言われる。いつもは、この壮大な草原の真ん中で、なにか売っている。商品はマリーたちが決める。わたしたちはそれを作れば良い。立ち寄るのは旅人。今日はお菓子だったが、それは毎日変わる。
「ねぇマリー。『ノア』を増やすために、わたしたち同士で結婚するの?」
マーガレットがさくりとお菓子を食みながら小首をかしげて言った。
「残念だけど」
マリーは本当に残念そうに言った。
「『ノア』同士の交配で『ノア』は産まれないのよ」
自然発生を待つしかないのなら、それはマリー達にとってじれったいことだろう。
わたしはもう二十三歳だ。ここにいる『ノア』はみんな二十歳前後だ。もうすぐみんないなくなる。
わたしも、もうすぐ死ぬ。
わたしの世界は産まれた時から、ここだけだった。みんながいる。マリー達もいる。何の不自由もない。
わたしは何のためにうまれたのだろう。たまにそんなことを思ってみたりするけれど、春風のようにするりと忘れてしまう。多分、それはわたしにとってそんなに重要じゃないことだからだ。大事なことなのかもしれないけれど、わたしたちは考えると言うことに慣れていないから。
それよりも、わたしたちが死に絶えてしまったら、マリー達はどうするのだろう。
「『ノア』同士の配合じゃ『ノア』は産まれない筈、だけれど…試してみてもいい。結果がわかっていても、ね。それほどあなたたちは美しい」
マリーは赤い唇をつり上げてふふと笑った。冗談か本気かわからないけれど、どちらでもわたしたちにとっては大差ない。言われたことをするだけだから。
わたしたち同士で配合するなら…女性はわたし、アミ、マーガレット、そしてメアリー。わたし自身の顔の美醜はわからないけれど、メアリーのことはとても美しいと思う。
男性は、ジャック、マックス、アレン、そして。
わたしは顔を上げた。
視線がぶつかる。
ノア。
ノアという名の、『ノア』。人類の亜種『ノア』であるノア。
わたしも、ノアも、見つめ合ったまま視線を動かさない。
ノアは、とてもきれい。
わたし、配合するなら相手はノアだったら…いい…かもしれない。