ノアの箱庭
わたしたちは笑いあった。みんながいる。それはとてもしあわせなことだ。
マリーは曖昧に笑って今度はアレンの頭を優しく撫でた。
「…今日はすこし遠くに行きましょう。朝食を食べ終わったら」
わたしたちはいつものように食事を終えると、マリーについて歩く。
「箱庭から出なければ、どこへいってもいいわ」
庭は広い。わたしたちは笑い声を上げて方々に散らばった。
若草のむっとするようなにおいのなかに座り込み、わたしは白詰草を摘んだ。
わたしがなにも考えることなく夢中になって摘んでいたことに気づいた時には、ひとつの花輪ができあがっていた。
ジャック。
ふいに、ジャックの笑顔を思い出した。
いつも元気だったジャック。きっと、死んだあともわたしたちを明るく迎えてくれる…。
わたしははっと頬に手を当てた。
涙、涙だ…わたし、泣いている。マリーのように、わたしは涙を流していたのだ。
わたしはそこでジャックのために少し泣いた。
きっと、この庭にいるみんなも、ジャックのために時折こうして涙を流しているに違いない。わたしはそう思った。
身動きした時に、腿になにか固い物があたって、わたしは旧約聖書を本棚のどこに戻すかをマリーに聞きそびれていたことに気がついた。
『ノアの方舟(はこぶね)』。ノアがあのとき読んでくれたのはキリスト教やユダヤ教、イスラム教で信仰されている旧約聖書のほんの一部で、そう呼ばれているお話だと言うことを、わたしはついこの前知った。
辿るのもできないほど遙か昔のこと。地が荒(すさ)み、人間は悪の心に囚われて暴虐が充ち満ちたとき。
天から見ていた神はそれに心を痛め、人間を創(つく)ったのは間違いであったと嘆き、地と共に生き物全てを滅ぼすことを決めた。
しかし『無垢な人』であったノアとその家族は生き延びさせるよう、方舟を造り全ての種類の生き物の雄雌一体ずつと食料を積み込むように伝えた。方舟の作り方すら神はノアに伝えた。ノアはそれを忠実に守り、人がノアを嘲笑う中で、数十年から百年もの時間をかけて方舟を完成させた。
ノアは六百歳になっていた。
決められたすべての生き物が方舟に乗った七日後、地上は大洪水に襲われた。
大洪水は四十日四十夜(しとかしとよ)続き、水は百五十日の間増え続けた。
そして全ての生き物は息絶え、地球は水に覆われた。
あとには方舟だけが残った。
ノアは祭壇を作り、供物を神に捧げた。神は言った。
「わたしはもう二度と人のために地をのろわない。もう二度と、全ての生きたものを滅ぼさない。その印として虹を架ける。これを見るたびにわたしはこの永遠の契約を思い出すだろう」
ノアは大洪水の後、九百五十歳まで生き、死んだ。
ノアのはなしはここで終わる。
九百五十歳まで生きたノア。二十歳で死んだジャック。
わたしはわたしの知るノアを思い浮かべた。聖書に載っているノアではなく、『ノア』としてこの箱庭でみんなと一緒に暮らしている、ノア。
ノアは、みんなと少し違った。
ノアはいつもなにかを考えているみたいだった。わたしたちと共に行動しながら、心は遠いところを見ているようで、それがわたしたちとはどこか違った。ノアの瞳には熱があった。生きている光だ。ノアは、『ノア』としてではなく、人として、生きていた。
自分で思ってわたしは納得した。そうだ。ノアは生きている。だったら、きっとノアはここにいるべきじゃない。この箱庭に。
「リリー!」
突然激しく肩を揺すられてわたしは瞼を持ち上げた。わたし…いつのまにか寝ていたのだろうか。
「ノ、ア」
一度も見たことないような焦り顔でわたしを覗き込んでいるノアの顔があった。
わたしのからだ、なんだかおかしい…。うまく動かせない、ような。
視界の中でノアの顔が一瞬歪んで、次いでわたしのからだが浮いた。
わたしの異変に気づいたノアが、きっとみんなのところに連れて行ってくれようとしているのだろう。わたしはゆっくりと瞬きをした。
ノアの体、暖かい…今日はこんなに寒かっただろうか。ノアに抱え上げられても、わたしの中の血が地にしたたり落ちているみたいに血の気が下がっているようで、体が重い。
暫くノアに寄りかかり瞼を閉じてから、薄目を開けたわたしは、気づいた。
周り一面、見たことない風景だった。
そこは、箱庭の外だった。ノアは箱庭を出たのだ。
「ノア…」
ノアは答えなかった。わたしを抱えたまま、歩いていた。緑は徐々に減り、じきに地は乾いた砂と茶色い枯れ木ばかりになった。
わたしはどこにいくのと問おうとしたが、やめた。ノアは箱庭を出たのだ。おそらく、わたしのために。さっきノアは箱庭にいるべきじゃないと思ったばかりだから、それがどんな理由であれ、歩みを止めるようなことは言うべきじゃない。それにきっと、ノアはすぐ自由になれる。
「海を見に行こう」
問わないわたしの代わりにノアが答えた。海。見たことがない。それはきっと、青く輝き、全てを覆う程大きく、とてもとても美しいのだろう。ノアのように。
「いいえノア、わたしは虹が見たい」
わたしは掠れ声でぽつりと言った。ノアは聞こえなかったようで、わたしに耳を寄せた。
「にじ」
わたしはもう一度言った。
ノアはわたしを見た。その赤い瞳で。わたしは笑った。ノアはやはり、箱庭にいるべきではない。
「わかった」
ノアは頷いて歩き続けた。日が傾き、地上が薄闇に包まれてきても、わたしを抱えて歩き続けてくれた。いつ、どこに出るともわからない虹を目指して。まわりはもう、見渡す限り全て砂山だった。でも来た方向はノアが覚えている筈。
「ノア、ありがとう。もういいよ。ここでおろして」
わたしは言った。果たしてそれは声としてノアに届いていただろうか。
ノアはわたしをゆっくりと下ろしてくれた。小さな砂丘に寄りかからせてくれた。おかげでわたしにノアの顔が見えた。
言わなきゃ。いま、言わなければ。ノアに。
「ノア、ノアは、自由だよ。行きたいところに行って」
落ちる瞼を引き上げて言う。
ノアは目を見開いた。そしてわたしの前で片膝をつくと、わたしの右手を取り、固く握りしめた。
ノアは泣いていた。
強い風が吹いた。わたしの左手から、固く握りしめていたはずの旧約聖書が落ちた。
重く落ちたそれは、ぶつかった拍子に紐が解れたのか、再び吹いた強い風に耐えきれずに、ばらばらと砂と共に風にさらわれて飛んでいった。遠く、とおく。
砂が瞳と口に入ってくるけれど、もう吐き出す力もない。