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暗行御使(アメンオサ)の秘密~燃え堕ちる月~4

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 どうして、身分の上下だけで人は差別されるのだろう。両班は貧しい人たちに威張り散らし、自分たちは何もしないで、民から取り上げようとばかりするのだろう。
 自分自身も両班家に生まれながら、凛花はいつもそんなことばかり考えて生きてきたのだ。
 今、文龍の想いは、そのまま凛花の想いでもあった。
 自分に何ができるのだろう。
 苦しみ、喘ぐ民たちに対して、何をなせば良いのだろう。
 凛花は自分自身に真摯に問いかけてみる。
 しかし、今はまだ応えは出ない。
 これから向かう任地で多くの民と知り合い、民に混じって暮らし、その土地の生活に溶け込んでゆく中に、応えは自ずと出るはずだ。
 きっと、その応えは、この道の向こうにある。文龍を失って以来、哀しみに凍え、憎しみだけに凝り固まっていた心が春の雪のようにゆっくりと溶けてゆく。
 凛花は背中の振り分け荷物を降ろし、袋を開いた。しばらく中を覗き込んでごそごそとやっているかと思うと、底の方にしまい込んであった封筒を取り出す。
 これからの旅の間中、ずっと背負うことになる袋には、任命状だけでなく、事目(暗行御使の職務を規定した冊子)、馬(マ)牌(ペ)(御使である証、これを見せると、様々な便宜を得られる)、鍮尺(検死をする際、使用する真鍮製の尺)などが入っている。いずれも御使にとっては、その存在を明らかにし職務を真っ当するめに必要不可欠なものばかりだ。
 それはやや大きめの封筒である。封筒から更に一通の書状を取り出し、読む前に立ち上がり、都に向かって跪いて手をつかえ拝礼を行った。王宮におわす国王への挨拶のつもりであった。これから読む書状は、正しく言えば、暗行御使としての委任状なのだ。
 つまり、皇文龍を王命により、暗行御使に任命するという旨のお達しが記されている。
 凛花は石に座り直し、改めて書状に眼を通す。
 そこには、型どおり、皇文龍を暗行御使に任ずると簡潔に書かれ、更にこれから赴くべき任地が順番に記されている。
 皇文龍は病も全快し、当初、国王が命じた日程どおり年内に無事、都を発った―と、今頃は王宮にも報告が届いていることだろう。
 許婚者との結婚が春に決まっていた文龍だが、祝言は延期、当人が希望していた祝言を終えての出発は変更となり、予定を早めての旅立ちとなった。―と、国王や議政府には伝えられた。
 また、申氏と皇氏の縁組は事実上は破談だとの旨も併せて報告がいっていた。文龍は一個人の幸せよりも国王殿下の忠臣として生きることに生き甲斐を見出そうとしている。そんな文龍の生き方に申氏の娘がついてゆけなくなり、当人同士の意思で祝言も無期延期となったのだとも。
 これ以降、申氏の娘は傷心のためか、自室に引き籠もって、人前に姿を現すことはなくなった―。これが凛花が考え出した〝入れ替わり〟の筋書であった。
 通常、暗行御使の任命状は国王から直接、手渡されることになっているが、今回は秀龍が預かり、文龍に手渡した。これは極めて異例の計らいで、国王第一の忠臣と呼ばれる秀龍が清宗に願い出たからこそであった。
 皇氏の嫡男が国王にすら挨拶もせず、しかも祝言を取り止め予定を繰り上げて出立する―、まさに事態の急展開である。しかも、当人はあれほどまでに祝言を済ませてからの旅立ちを願っていたのだ。もしかしたら清宗自身、事態の異常さに何かしら勘づいているところはあるのかもしれない。大人しい気性ではあるが、けして愚かではなく、むしろ繊細なだけに人の心の機微を読むのに長けている王である。
 清宗は朝廷一の忠臣と認める秀龍には何も訊ねようとしなかった。己れの保身や出世しか頭にない高官たちの中にあって、皇秀龍は清宗が心から信頼を寄せる数少ない臣下の一人だ。
―大監。
 秀龍が任命状を押し頂いて王の執務室を退出しようとした時、清宗が一度だけ、物問いたげな視線を送った。
―殿下、何でございましょう。
 だが、清宗は思い直したように首を振った。
―いや、良い。病み上がりの身に長旅はこたえよう。文龍には健康に十分留意して務めを果たすようにと伝えてくれ。
―畏れ多いお言葉、必ずや倅に伝えまする。
 秀龍はもう一度、深々と頭を下げた。
 清廉潔白な秀龍の人柄は王自身も認めるところであった。秀龍が嫡男を誰にも会わせず都を出そうとするのは相応の理由があるはずだ―。勘の鋭い国王は違和感に気づいていながら、敢えて訊ねなかったのだとも受け取れる節があった。
 もちろん、凛花は宮殿での王と秀龍のやりとりを知る由もない。
 暗行御使という役目は判り易く言えば隠密だ。
 常時、設置されている職務ではなく、臨時に適当と思われる人物に王命が下る。国王がどこそこの地に暗行御使を送りたいと言えば、領議政、左議政、右議政の議政府の大臣三人が集まり、ふさわしい人物の選定を行う。
 いよいよ決まれば、その者の名を国王に報告し、王の名で任命状が作られた。そして、国王から指名された当人が直接王宮まで出向いて、任命状を受け取るのだ。
 この任命状というのは、けして都を出るまでは開けてはならないことになっている。というのも、暗行御使は地方行政が円滑に行われているか、即ち、地方の治政を王から任されている地方官の勤務ぶりをひそかに見て回るのが主な務めなのだ。
 暗行御使には王から全権を与えられ、任地では王の名代として、都に伺いを立てずとも独自の判断で事の是非を正しても良いことになっている。つまり、地方官の不正、領民虐待、不当な搾取などを取り締まり、独自の裁量で裁ける権限を持ち、その後、その地の法律を変えることもできるのだ。
 暗行御使が地方官を取り締まるのをよく〝裁きを行う〟といった言い方をする。裁きを行った後は、すみやかに国王への報告書をしたため、都に送ることも義務づけられていた。
 一つの任地で裁きが終わると、また、次の任地へと向かう。それらの任地はすべて任命状に順番に記されていた。
 以上のように任地では大変大きな権限を持つ。
 更には事前に誰が暗行御使かを知られないため暗行御使の選定は三政丞だけで行い、指名された当人と三政丞だけが暗行御使がそも何者なのかを知るのだ。むろん、国王は例外である。
 渡された任命状を都内で開けてはならないという掟も、機密の秘守のためなのだ。
 凛花は任命状にひととおり眼を通すと、また丁寧に折り畳んで封筒にしまった。
 早くも心は任命状に記されていた最初の任地に飛んでいる。彼の地では、どのような出逢いが待っているのだろうか。
 文龍さま、たとえ私がどこに行っても、文龍さまは私を見守っていて下さいますよね?
 文龍さまにどこまで近づけるかなんて考えるのはおこがましいですけれど、私なりに精一杯頑張りますので、どうかお力をお貸し下さいませ。
 凛花は心の中で秀龍に呼びかけた。
 文龍は、もみじあおいが好きだとよく言っていた。もみじあおいは一日で萎む一日だけしか咲かない花である。その儚い生命は若くして花の生命を散らした恋人に重ならないこともない。
 それでも、今年の秋の初めに文龍ともみじあおいを見たときに考えたように、あの花は儚さの中にも強さを秘めていると思う。
―凛花、凛花。