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暗行御使(アメンオサ)の秘密~燃え堕ちる月~4

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 皇都事は現在、病気療養中という名目で官職はそのままに休職という形を取っている。
 ゆえに、文龍の葬儀はいまだに行われていない。凛花と秀龍だけで荼毘に付し、郊外の山寺の背後に立つ山に小さな墓を建てて葬った。もとより、墓碑には名前も記されておらず、あの場所に文龍が永眠(ねむ)るのを知っているのは、凛花と秀龍の二人しかいない。
 恐らく、文龍の死を内密にしておいて欲しいと頼んだそのときから、秀龍は凛花の真意をおおよそは理解していたに違いない。若くして非業の死を遂げた息子を丁重に弔ってやりたいという親心は十分にあったはずだ。にも拘わらず、凛花の願いを嫌な顔もせず聞き入れてくれた。その理由すら問わなかった。
 一度は〝義父〟と呼び、生涯を友にする伴侶となったであろう男の父親であった。
 気がつけば、秀龍の眼が濡れていた。
―大監のような自制心の強いお方が泣いている―。
 よくよく見れば、秀龍の眼尻には細かい皺が幾つも刻まれている。
 ああ、この方も数多くの労苦や試練を重ねてこられのだ。
 凛花は秀龍の涙に少なからず衝撃を受けた。実年齢より若々しいとはいえ、頼りにする息子を失い、幾分老け込んで見えるのは当然だろう。
 帰り際、凛花は拝礼(クンジヨル)を行った。両手を組んで眼の高さに掲げ、座って一礼、更に立ち上がって深々と頭を下げる。
 申凛花としてチマチョゴリ姿で拝礼するのは恐らくこれが最後。都を一歩出たそのときから、〝皇文龍〟として生きてゆくのだから。そして、再び生きて都の地を踏んだとしても、今後は亡き恋人の父に逢うこともないだろう。文龍の死によって、皇氏との縁は事実上、切れたのだ。
 そう、凛花は亡き最愛の男となり、文龍が今も生きていれば送ることになったであろう生涯をその代わりに生きてゆくのだ。
 もし、文龍がそれを知れば、愕くより、きっと怒るだろう。
―相変わらず、私がちょっと眼を離したら、そなたは何をしでかすか判らぬ。
 文龍に心配されたり、怒られたりした頃がひどく懐かしい。あの頃からまだわずかしか経っていないのに、もう十年経ったような気がする。
 凛花にとって、文龍の存在はそれほど大きかったのだ。
「達者でな。くれぐれも任務を滞りなく果たして、無事に戻ってくるのだぞ」
「義父上さまもお元気で」
 凛花はもう一度、深々と頭を下げた。


 凛花―いや、今、この瞬間から、皇文龍となった彼女はふと立ち止まった。今の彼女はむろん、チマチョゴリではなくパジチョゴリを纏っている。パジチョゴリは鼠色がかったくすんだ蒼色で、少し地味な印象だ。粗末すぎるものではないが、かといって、上等というわけではない。
 長い髪は頭頂部で髷に結い、鐔広の帽子を目深に被っていた。帽子の顎の部分には連なった翡翠が繋がって垂れている。背中には振り分け荷物を背負い込んだそのいでたちは、どこから見ても下級両班の子息の旅支度といった風だ。
 感慨を込めて、ゆっくりと背後を振り返る。なだらかな弧を描く丘の上からは都が一望できる。
 まるで玩具のように小さく見える漢陽の都をひとしきり眺め降ろしながら、凛花は手近にあった石に腰を下ろした。
 都を出て既に一刻は過ぎている。この辺りになると、もう都の賑わいの片鱗もなく、丘の上は一面、大根畑がひろがるばかりであった。
 もっとも、凛花が都を発ったときは、まだ都は深い眠りの底に沈んでいて、昼間は賑やかな往来にも人気は殆どなかった。
 凛花はまだ夜が明ける前に屋敷を出たのである。
 死んだはずの文龍に成り代わり、暗行御使として旅に出る―、父に告げた時、父は流石に少し愕いたようだった。しかし、すぐに〝そうか。そなたが自分で考えて決めたのなら、思うようにしなさい〟と笑って言うにとどまった。
 幾ら理解力のある寛容な父でも、女の身であまりにも無謀すぎると止められるのは覚悟していた。あまりにあっさりと許されたので、正直、拍子抜けしてしまったほどだ。その気持ちを父に打ち明けると、父は笑った。
―止めろと言って、止めるようなそなたではないだろう。
 凛花もその言葉には一言もなかった。
 ナヨンには黙って出てゆくつもりだった。打ち明けて納得してくれるとは思えなかったし、大好きな乳姉妹に泣かれるのは辛かったからだ。
 が、荷物を背負って部屋を出た時、庭にナヨンが立っていたのだ―。
―お嬢さまがお考えになっていることなんて、私には全部判りますよ。それでなくても、お嬢さまは判り易い方なんですから。頭の中のことが全部、お顔に出るんですもの。そんな有り様で、大切なお役目が無事勤まるんですかねえ。私は心配で、付いてゆきたいくらいですよ。
―何もそこまで言わなくても。
 頬を膨らませる凛花を抱きしめ、ナヨンは震える声で囁いた。
―絶対にご無事でお戻り下さいね? お嬢さまが先にお嫁にゆかないと、私まで、いつまで経っても嫁げないんですから。そんなのは困ります。
 凛花の気持ちが伝わったのか、ナヨンは涙を見せなかった。
 凛花の方が不覚にもナヨンにしがみついて、声を上げて泣いてしまった。
 父やナヨン以外に別離を告げたい人はいなかった。文龍の父秀龍には、決意を告げた時、既に別れの挨拶を済ませている。
 義禁府に出仕すれば、本物の文龍と入れ替わったことが露見する可能性が高い。幾ら男装してそれらしくごまかしても、凛花の外見が文龍と一致するはずもないのだ。
 それゆえ、暗行御使が誰にも知られずひそかに出立しなければならないという暗黙の決まりを利用し、敢えて王宮に顔を出さず、屋敷からそのまま任務の旅へと出たのである。
 御使としての任務を無事、終えられるのかどうか。それすらも覚束ないのが正直なところだが、無事に都に戻れたとして、その後の身の処し方についても一応考えてはいる。
 入れ替わりは文龍の顔をろくに知らぬ人々のいる地方では通用しても、都では不可能に近いだろう。いつになるかは判らないけれど、次に都に戻ったそのときが〝皇文龍の死ぬ〟ときになるのだ。都に戻った〝皇文龍〟は今度こそ亡くなり、凛花は本来の姿に還る。
 都を発ったときはまだ空が夜明け前の薄蒼さを残していたのに、今、空は東の山の端辺りが早くも茜色に染まり始めている。
 冬にも拘わらず青々とした葉を立派に茂らせている大根畑は、まるで緑の海のようだ。その海の中を走るひとすじの道のように、細い砂利道がずっと向こうまで続いている。
 凛花はこれから、この道を歩いて旅に出るのだ。一体、この先に何が待っているのかと考えると、不安と期待の入り混じった微妙な気持ちになる。
 凛花は再び視線を丘陵下の都に向けた。
 凛花の視線は都に向けられていたが、心の眼は文龍を見ていた。
―地方の民の窮状をつぶさに見て、こんな自分にも民のためにできることがあればと願っていたのに、志も果たせなかった。
 臨終間際に、文龍は言い残した。あのひと言を凛花は今も一日に何度となく思い出すのだ。
 凛花はこれから、文龍のその志を受け継いで生きてゆく。
 ここからでは途方もなく小さく見えるあの都に、気の遠くなるような数の人々が暮らしている。それだけの人の生があそこにあるのだ。