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暗行御使(アメンオサ)の秘密~燃え堕ちる月~4

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「いや、別にそれはそれで構わぬ。なるほど、それでこのように震えているのだな。大丈夫だ、何も怖いことはない。すべて私が教えてやろう」
 思いがけず生娘を抱ける幸運に恵まれるとはな。
 直善が洩らしたその最後の言葉を凛花が聞き逃すはずはなかった。
 再び引き寄せられ、直善の顔が近づいてくる。口づけされるのだと判ったが、凛花は敢えて眼を見開いたまま直善を見つめていた。
 凛花の顎を指で掬い上げ、心もち上向かせた直善が首を傾げた。
「そなた―、どこかで逢ったことはないか?」
 凛花は婉然と微笑む。
「朴氏の若さま、私を憶えておいでですか?」
 刹那、直善の端整な顔に烈しい驚愕の色が走った。
「まさか、そなたは」
 凛花は妖艶な仕種で首を傾けて見せる。
「そう、申凛花にございます」
 直善がわずかに警戒したように身構えた。
「何故、そなたがこのような場所に、しかも妓生としているのだ?」
 凛花は片手を胸に当てて、切なげに直善を見上げる。
「どうしても、若さまのことが忘れられず、何とかしてもう一度だけ、お逢いする手立てがないものかとこうして恥も外聞もなく、一計を案じたのです」
 それでも、直善は強ばった面を緩めることはない。
「そなたは亡き皇都事を慕っていたのではなかったのか?」
「若さま、時が経てば、人の心は変わります。ましてや、皇文龍さまは、もうこの世の方ではございません。女がいつまでも過去にしがみついているとでもお思いですか? しかも、手を伸ばせばすぐの場所に幸福があると判っているのに」
 直善は首をひねりながら、少し思案する風を見せた。
「ふうむ、そなたも少しは利口になったということか。だが、また何とも手の込んだことを致すものよ」
 凛花は微笑む。
「それも皆、若さまにお逢いしたい女心ゆえにございますわ」
「可愛いことを申す」
 直善の頬が完全に緩んだ。
 しげしげと凛花を見ながら、直善が溜息混じりに言う。
「それにしても、女とはげに怖ろしき魔物だ。あの清楚な美少女がこうも色香溢れる妓生に早代わりするとは、世の中、判らぬものだな」
 〝来なさい〟と両手をひろげられ、凛花はいかにも恥じらう風を装いながら、直善ににじり寄った。
 背中に男の手が回され、強い力で抱き寄せられながら、凛花は甘えるような声で言った。
「今日という日を私がどれだけ待ち遠しいと思っていたか、若さまはお判りですか?」
「ホホウ。かくも嬉しいことを申してくれるのか。そなたは存外に男を惑わす手管に長けておるのやもしれぬぞ。生憎と、あれから私も父上の意向で刑曹判書どのの娘と結納を交わしてな。ゆえに、正室は無理だが、いずれ側室として我が屋敷に迎えてやろう」
 相も変わらず、訊ねもしないことまでペラペラとよく喋る煩い男だ。
 こんな男の腕に抱かれていると思うだけで、総毛立つ。だが、もう少しだけ我慢するのだ。
 〝嬉しい〟と呟き、、直善の胸に顔を埋めながら、凛花はくぐもった声で言った。
「若さまは先ほど、私を魔物だとおっしゃいましたが、私は魔物ではございません。魔物のように冷酷で容赦ないのは、他ならぬあなたさまでございましょう」
「そなた、一体、何を―」
 直善が口を開きかけたのと、凛花が頭から素早く抜き取った簪が直善の胸を突いたのは、ほぼ同時のことである。
 直善は耳障りな声を上げながら、凛花から離れた。厭味なほど派手な金地のチョゴリの胸許辺りにうっすらと血が滲んでいた。
 凛花は艶然とした笑みを湛える。
「どうやら急所を外してしまったようね。この一撃で仕留められると思っていたのだけれど」
 凛花は淡々と言い、チマの裾をめくった。左脚に短剣が革紐で巻き付けられている。凛花はそれを素早く抜き取った。
「これが誰のものだったか、判る?」
 わざと短剣を高々と掲げて見せる。つられて、短剣の柄を飾る虎目石がゆらゆらと揺れた。
「そう、これは文龍さまの愛用していた剣よ。どうせお前をあの世に送るのなら、文龍さまの剣であの世へ送ってやるわ」
 凛花の本気を感じ取り、直善は蒼白な顔で震えている。
「お前は私をあんな手紙で挑発し、まんまと誘い出すことに成功した。そのせいで、文龍さまは思うような働きもできず、あえなく生命を落としたのだ。だから、私も同じことをしてやろうと思った。お前が私にしたように、こうして手紙でおびき出した。更には、お前が文龍さまに味合わせたのと同じだけの苦痛を味合わせてやろうとな。皆、お前自身の虫酸が走るような計略を利用させて貰った。どうだ、かつて自分が考えた筋書によって躍らされ、生命を落とす気分は? お前が私に見せてくれたより、数倍も面白い見せ物に違いないでしょう?」
 凛花は皮肉に縁取られた声で告げる。
「いつもお前に貼りついているあの従者がここにいなくて、幸いだった。もっとも、思わせぶりな文を送れば、お前が従者の眼を掠めてほいほいと一人で出てくるだろうと確信はしていたけれど」
「た、助けてくれ。悪かった、私が悪かったのだ。ほれ、このとおり、謝る」
 直善が烈しく首を振りながら、後退る。 
 胸の傷自体は、たいしたことはなさそうである。立とうとしても立てないのは、情けなく腰が抜けたからのようだ。
「お前など、文龍さまの脚許にも及ばない。文龍さまという決まった方がいなくても、私はお前など見向きもしなかっただろう」
 凛花は静かに短剣の鞘を払った。
「心配しなくても良い。文龍さまはお前と違って、お優しい方であった。ゆえに、文龍さまに免じて苦しみを長引かせることなく、お前を冥土に送ってやる」
 次の瞬間、白刃が宙に閃いた。
 凛花に背中を向けて逃げようとした直善の上に刃が振りかぶる。
 鮮血が飛沫となり、ほとばしるように部屋中に飛び散った。自身もその返り血を浴びながら、凛花は擬然として立ち尽くしていた。
 凛花の白い頬をひと粒の涙が流れ落ちてゆく。
 文龍が死んでからというもの、初めて流した涙であった。彼女の中で止まっていた刻がゆっくりと時を刻み始めた。 
 
 その翌朝、都の外れを流れる小さな川に若い男の死体が浮かんだ。
「相当の手練れだな。ここを見てみろ、背中からばっさりとひと突きだ」
「こんな鬼神のような剣技を持つ奴には俺ァ、絶対に闇夜では出逢いたくねえや」
 捕盗庁の役人たちは、引き上げられた男の亡骸を検分しつつ、引きつった顔で囁き合った。
 この死体の身許は直に知れた。何と、亡くなったのは時の右議政朴真善の嫡子直善。
 直善は昨日の昼過ぎに屋敷を出ている。いつもなら馬か輿で仰々しく出かけていくのに、昨日に限って伴も連れず一人で出かけたらしい。出かける四半刻前に、薄汚い女の子が朴家を訪ね、
―これを朴家の若さまに渡して欲しいと頼まれた。
 と、女中に渡して帰った。
 女中から執事の手に渡ったその手紙は直善に届けられ、直善はそれを嬉しげに読んでいた。そのときの直善のしまりのない顔を傍らで見ていた執事は、その手紙は馴染みの女からと思ったと、捕盗庁の役人に控えめに告げた。しかし、実のところ、その手紙の内容は亡くなった当の直善しか知らない。
 まさか、その書状が月華楼の女将の名を借りた凛花の手になるものだとは誰も想像だにしなかった。