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暗行御使(アメンオサ)の秘密~燃え堕ちる月~4

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「そなたにはまだ話していなかったが、近々、暗行御使(アメンオサ)の任務につくことになっていた。ひと月前、領(ヨン)相大(サンテー)監(ガン)に内々に呼ばれ、伝えられたのだ。来春にはやっと祝言が決まったゆえ、せめて都を発つのは祝言を挙げてからにさせて欲しいと頼んでいたんだ。新婚早々、そなたを長らく一人にするのは気が進まなかったが、一方で折角与えられた機会を存分に活かしてみたいとも思っていた。地方の民の窮状をつぶさに見て、こんな自分にも民のためにできることがあればと願っていたのに、志も果たせなかった。何の働きも孝行もできず、父上には重ねての不幸で申し訳ないと」
 そして、最後は、そなたに詫びなければならない。
 忙しない息の下から、文龍が言った。
「ずっと傍にいて、そなたを守ってやると約束したのに、その約束が果たせなかった。本当に済まないと思っている」
 〝私の凛花〟―、事切れる間際、文龍は確かにそう呟いた。
 文龍の身体から急に力が抜け、その身体の重みを両手で受け止めた時初めて、凛花は最愛の男が自分を置いて逝ったことを自覚した。
 不思議なことに、文龍の死を認識した途端、涙は止まった。
 人は本当に絶望した時、哀しい時、感情が麻痺して涙さえ失ってしまうのだ。十七年の人生で初めて知った哀しい事実だった。
 緩慢な動作で視線を動かし、文龍の顔を見つめる。どれだけ苦しかっただろう、どれだけ無念だったろう。
 苦しんだ割には表情は安らいでいて、苦悶の跡は片鱗もないのが余計に哀しみを誘う。
 文龍は名門皇氏の跡取り息子だった。義禁府きっての手練れとして注目され、将来を嘱望されていた青年だったのだ。その前途には輝かしい未来が待ち受けていたはずだ。
―地方の民の窮状をつぶさに見て、こんな自分にも民のためにできることがあればと願っていたのに、志も果たせなかった。
 突如として、未来や希望、すべてを奪われた彼の口惜しさは察するに余りある。
 こんな風に死んではいけない男だったのに。この国のためにも、必要な人材であったはずだ。
 もっともっと生きていて欲しかった。凛花のためにも。
 しかし、文龍が死んだ原因の一旦は我が身にある。凛花は自分が自分で許せない。
 凛花の心の中で、哀しみの代わりに怒りの焔が大きく燃え上がった。
 許さない、私はけして許さない。
 文龍さまを奪った卑劣極まりない男を。
 凛花の瞳に強い決意の色が宿った。
 
 旅立ち

 遠くから伽倻琴(カヤグム)の音色が響いてくる。あれは、別室で催されている宴で妓生がつま弾いているのだろうか。
 凛花は床についた片膝の上で両手をギュッと握りしめた。
 ここは漢陽の色町の一角、月(ウォル)華(ファ)楼(ヌ)である。今、凛花がいるのは階段を登り切ってすぐの室だ。
 いよいよ、その瞬間が来る。長いようにも、短いようにも思える時間は実にもどかしいほどゆっくりと凛花の上を通り過ぎていった。
 いや、最愛のあの男がいないこの世に、時間など存在しない。あの日、文龍が亡くなったときから、凛花の刻は止まったままだ。
 この日をどれほど待ち望んでいたか。
 文龍が突如としてこの世にいなくなって、既に一ヵ月余りが過ぎていた。
 あの日は晩秋であったのに、月日はうつろい、都では昨日、例年より数日早く初雪が降った。
 申家の庭では山茶花(さざんか)が盛りと咲き、濃いピンクの花が純白の雪を戴いている様は、冬ならではの光景を呈している。
 大切な人がいなくなっても、季節はめぐり、花は散ってもまた開く。文龍が死んでも、秋になれば、もみじあおいが申家の庭を美しく彩るのだろう。
 けれど、文龍さまがいなくなって、それが何だというの? 
 今の凛花には花の色もすべて色褪せて見える。どんなに綺麗な花でも、あの男と一緒に見るからこそ、綺麗だと思えた。あの男がいなければ、どの花が何の色をしていたって、皆同じ。
 凛花はただ、今日のことだけを考えて、文龍を失った日々を埋めてきたのだ。
 沈痛な物想いに耽っていた凛花の耳を、扉の開く音が打った。
 凛花は慌ててうつむき、伏し目がちになる。さも緊張していると見せかけるために、片手を胸に添えた。
「そなたが恵(ヘ)月(ウォル)か?」
 傍にどっかりと腰を下ろした男は早くも馴れ馴れしく凛花の手を取った。
 今、凛花は妓生〝恵月〟になり切っている。去年の秋、朴直善に無銭飲食をされた挙げ句、見世を荒らされて難儀していた酒場の女将―、あの女将に頼み込み、知り合いの妓房を紹介して貰ったのだ。
 この月華楼の女将明月(ミヨンオル)は既に三十路を越えた年増だが、あだな美貌は一向に衰えていない。面倒見の良い気性は、妖艶な外見には似合わず、存外にさっぱりしていた。
 酒場の女将は、かつて月華楼で客を取っていた妓生である。年季が明けて、晴れて自由の身となり、自分の見世を持ったのだ。そのときも明月が前祝いとして見世を出す資金の半分を気前よく出してくれたという。
 酒場の女将は、凛花への恩を忘れておらず、明月への橋渡しをしてくれた。また、明月も深い事情は一切訊ねることなく、凛花の申し出を受け入れ協力してくれたのである。
 凛花は妓生風に編んだ髪を高々と頭に結い上げ、幾つもの玉の簪を挿し、華やかな色合いのチマチョゴリを纏っていた。淡い水色のチョゴリと艶やかな牡丹色のチマを纏ったその姿は、どこから見ても妓生の色香を漂わせている。
 客の問いかけに、凛花はそっと頷いた。
「まだ妓生となって日が浅いと聞いたが、やはり、女将の言葉に嘘はなさそうだな」
 男―朴直善はヤニ下がった顔で、凛花の手を嫌らしく撫で回している。思わず手を引っこ抜きたいのを堪え、一旦、もう一方の手を直善の手に重ねてから、やんわりと男の手を放した。
 二人の間には小卓が置いてある。その上には器に盛られた様々な酒肴が並んでいた。
 凛花は銚子をさっと手にすると、盃になみなみと注ぐ。
「まずは一献、差し上げまする」
 消え入るような声で言うのに、直善が〝うむ〟と盃を受け取る。注がれた酒を彼はひと息に飲み干した。
 空になるのを見計らったように、すかさず二杯目を注ぐ。その合間には、手前にあった蒸し鶏を箸でひと口毟り、男の口に入れてやった。甲斐甲斐しく世話を焼かれ、直善はすごぶる満悦であった。
 半刻余りの間、そうやって給仕をしていただろうか。直善が時には凛花にも呑ませたがるので、凛花は素直に彼の盃を受け取り、酒を呑んだ。
 すべての皿があらかた空になった頃、直善が小卓を脇に寄せた。手を伸ばして凛花を抱き寄せてくるのに、大人しくなされるがままに直善の胸に頬を押しつける。
「さあ、参ろう」
 直善が示した部屋の奥には、派手な色柄の夜具が布いてある。
 そのまま直善に抱き上げられようとして、凛花はそっと彼の胸を押しやった。
「つまらぬ娘を押しつけたと思われては心外ゆえ、女将さんからはけして申し上げてはならないと言われていたのですが」
 凛花は身をかすかに震わせながら、消え入るような声で言った。
「私は客を取るのは初めてなのです」
 直善が流石に愕いたように眼を見開く。