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暗行御使(アメンオサ)の秘密~燃え堕ちる月~4

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 切れ長な眼が薄刃のごとき笑みを含んでいる。確かに笑っているのに、笑顔ですら鳥肌立つような明確な殺意を隠せなかった。
 この男の得体の知れなさが無性に怖かった。我知らず身体が震え、凛花は守るように自分の身体を抱きしめる。ふいに、乳母の声が耳奥でありありと甦った。
―あまりにも美しすぎるものには魔が潜むと申しますよ。
 凛花は改めて眼前の男を見た。美しい、美しすぎるほどの美貌。まるで、今宵、空に浮かぶ血の色に染まった月のような。その現(うつつ)とも思えぬ人離れした美しさがかえって禍々しい。凄艶な美貌は壮絶すぎて、怖ろしいほどだった。
 直善が傲岸な笑みを刻んだ。この世のすべての人を見下したかのような微笑みだ。
 と、文龍が小さく呻き、肩を押さえた。
「大丈夫ですか?」
 凛花は愕き、文龍の左肩を見る。上衣が破け、傷口から薄く血が滲んでいる。思ったとおり怪我の程度は酷いものではないけれど、やはり、きちんとした手当をした方が良い。
 凛花は自らのチョゴリの袖口を少し引き裂くと、急いで文龍の上腕に巻いた。
 怪我をした文龍を見ていると、泣きそうになってくる。涙を堪えて手当している凛花を醒めた眼で見つめ、直善が呟いた。
「さあ、この目障りな男、一体、どうしてやろうか」
「若さま、この男、どうやら、かなりの遣い手のようです。お望みなら、私が相手をしましょう」
「行(ヘン)首(ス)がわざわざ手を下す必要はないでしょう」
 直善が敬語を使うことからも、この妖しい男がただの商人ではないことは明白だった。
 直善は事もなげに言い放った。
「放っておいても、こやつは直に死にますよ。この毒はじわじわと効いてくる代わりに、途轍もない効力を持っています」
「ホホウ、若さまは、あの薬を使われたのですか」
 蘭輝の方は直善の話に心当たりがあるよううだ。妖しい美貌に凄みのある微笑を浮かべて頷いた。
「―!!」
 到底聞き逃せないひと言に、凛花は思わず眼を見開いた。まさか、先刻、この男が投げた短剣の刃に毒が?
「どういうことなの?」
「だから、言っただろう? どんなパンソリよりも面白い見せ物を今夜、そなたに見せてやると。先刻も申したように、この男はもうすぐ死ぬ。恋しい女の前で、血を吐き、のたうち回りながら見苦しく死んでゆくのだ。そして、凛花。そなたは、惚れた男が苦しみ抜いて死んでゆくのを手をこまねいて見ているしかない。―実に、実に愉快な幕引きではないか」
 凛花の眼に怒りと絶望の涙が滲んだ。
「卑怯者」
 直善が勝利に酔いしれ、笑みの形に唇を象る。
「何とでも言うが良い。幕が下りれば、お前たちにもう用はない。行首、行きましょう」
 直善は、蘭輝と笑いながら去ってゆく。その後を内官や車引きの男たちがぞろぞろとついていった。
 最後尾を歩く若い男がゆっくりとこちらを振り返る。凛花には、その男の容貌に見憶えがあった。酒場で一度きりしか見ていないけれど、あれは確かに直善の従者だ。あのときも直善に影のようにぴたりと貼りついていたが、今夜も忠実な番犬よろしく後をついゆく。
 死に逝こうとしている者がいるのに、あの二人は何事もなかったかのように和やかに談笑しながら、余裕の脚取りで蘭輝の屋敷に向かって歩いていった。
 凛花は憎しみに燃える瞳で遠ざかる二人を見送った。
 突然、文龍の逞しい身体がガクリと頽れそうになった。
「文龍さま」
 凛花は泣きながら文龍の身体を脇から抱き止める。が、凛花の力では支えきれず、結局、彼はその場に座り込んだ。
「解毒、どこかに解毒の薬はないかしら? 文龍さま、歩けますか? 急いで私の屋敷に帰りましょう。お医者さまを呼んで、解毒の薬を処方して頂ければ、助かります」
 凛花が懸命に言うと、文龍は力なく笑った。
「か弱いそなたがどうやって私を連れて帰るのだ」
 凛花は涙声で訴えた。
「私、こう見えても力はあるのです。文龍さまお一人なら、支えて歩いて参ります」
 申家の屋敷は漢陽の中心部にある。都も外れのこの場所から凛花が逞しい文龍を支えてゆくなど、土台無理な話だ。
 だが、凛花は本気だった。たとえ、血を吐いても、文龍を連れて帰り、治療を受けさせなくてはの一心なのだ。
 凛花は涙ながらに何度も同じ科白を繰り返した。
 文龍はそれには何も言わず、うっすらと笑んだまま言った。
「凛花、直善が使った毒に心当たりがある。まだ、この国には存在しない珍しいものだ。恐らく、蘭輝が清国から手に入れたのだろう。ゆえに、解毒の薬など存在しないんだ」
「でも、でも、それでは文龍さまが―」
 死んでしまうという不吉な言葉を呑み込み、凛花は涙に曇った瞳で恋人を見た。
「たとえ解毒の薬があったとしても、毒が体内に入って、長い刻が経ちすぎた。もう何をどうしても、私は助からない」
 凛花の眼から大粒の涙が溢れ、頬をつたった。
 文龍の呼吸が次第に荒くなってゆく。ひどく苦しそうだ。凛花にも、既に彼の生命の焔が消えようとしているのが判った。
「死なないで」
 凛花は文龍の身体に縋って泣いた。
 自分のせいだ。凛花が直善の手紙を読んで、のこのことここに来たばかりに、文龍は任務に失敗してしまった。彼の相方の武官ばかりか、文龍までが生命を落とそうとしている。
 文龍さまを守るなんて、偉そうなことを考えて。私ったら、本当にどうしようもない馬鹿だ。挑発としか思えない内容の手紙、誘いに乗ったばかりに、みすみす大切なひとを危険に晒してしまった。
 凛花を盾に取られていなければ、文龍は自在に動けたはずだ。我が身の浅はかさを烈しく責めた。
「私のせいで、文龍さまを窮地に陥れてしまいました。本当にごめんなさい―」
 文龍が手を伸ばし、凛花の頬に触れる。
「そなたのせいではない。私こそ、そなたを哀しませることを許してくれ」
 文龍は最早、座っているのも辛いように見えた。眼で促され、凛花は文龍の身体をそっとその場に横たえた。唇から血が滴り落ちていた。
 あの唇がほんのひと月前、凛花の唇を塞ぎ、凛花は荒々しく求められた。これまでにない文龍の烈しさに戸惑いながらも、凛花は恋人が積極的に自分を求めてくれることにひそかな歓びを憶えたのだ。その後、彼は凛花を優しく腕に抱いて言った。
―そなたには笑顔が似合う。いつも笑っていてくれ。
―そなたが泣くと、私は、どうふるまえば良いか判らなくなる。良い歳をした大人でも、ほら、このとおり、女を慰める言葉一つ、口にできぬ無粋な男だ。
 凛花の眼からは今も、大粒の涙がひっきりなしに流れ落ちている。自分は最後まで、恋人を困らせてしまっているのだ。
 〝最後〟、その実に不吉な響きを持つ言葉に、凛花は身震いする。
 もう、二度と文龍からあんな風に口づけられることも、優しく抱擁されることもないのだろうか。
 そう考えただけで、底のない奈落へと落ちてゆくようだ。文龍のいない人生に、何の意味があるというのだろう?
 涙の幕が張った双眸に、逝こうとしている恋人の顔が滲む。
「私の父に伝えて欲しい」
 その言葉に、凛花は涙を堪えて頷いた。
「はい、何なりと仰せ下さいませ。必ずや私が礼曹判書さまにお伝え致します」
 文龍の苦しげな面に、満足げな笑みが浮かぶ。