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暗行御使(アメンオサ)の秘密~燃え堕ちる月~4

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凛花もまた言い知れぬ想いで、若い武官の死に顔を見つめる。この男は、つい先刻まで、ちゃんと生きていたのだ。それなのに、今はもう、固く閉じられた眼は何を映すこともない。 
「おのれ、よくもチョンピョンを」
 文龍が憤怒に燃えて吠えると、直善がゆったりと返す。
「雑魚に用はない」
「何だと?」
 文龍の激高を嗤うかのように直善が笑った。
「この状況を少し利用させて貰おうと思ってな。マ、この跳ねっ返りには実に面白い見せ物を見せてやれる」
 文龍がとんっと跳ね飛んで、凛花に近づく。まるで跳んだ瞬間が見えなかったほど、鮮やかな身のこなしであった。
「文龍さま、来てはなりません!」
 私のことなら、大丈夫ですから。
 そう言おうとした時、すかさず直善が凛花の身体を自分の方へ引き寄せた。
「文―」
 直善が後ろから何か言いかけた凛花の首をぎりっと絞めた。
「凛花―、くっ」
 攻撃を仕掛けようとしても、凛花を囚われたままではできない。
 文龍は悔しげに顔を歪めた。
―私ったら、文龍さまをお守りするどころか、足手まといになっているだけだわ。 
 凛花もまた己れの無力感に打ちひしがれていた。
「これからがいよいよ山場といったところだな。さあ、どうする? 女の生命を助けたくば、さっさと剣を棄てることだ」
 直善が凛花の細首に回した両手に更に力を込める。凛花が苦しげに顔をしかめ、口から小さな悲鳴を上げた。
「凛花ッ」
 文龍が叫ぶと、凛花は逃れようと暴れた。
 直善はそれを嘲笑った。眦はキッとつり上がり、炯々とした異様な光を放っている。まるで何かに憑依されたかのようだ。
「婚約者がいたとはいえ、私を拒むなど許せぬ」
 文龍は息を呑んだ。凛花へのあまりに烈しい執着は、空恐ろしいものがあった。
 この男は狂っている―。
「直善さま、私の差し上げた情報は、少しは役に立ちましたか?」
 聞き憶えのある声が響き、文龍は眼を瞠った。
「そなたが何故、ここにいるのだ」
 半月前、王宮のネタン庫から内侍府長に黙って宝物をかすめ取ろうとしていたあの内官である。文龍の手配で、彼は既に相応の報酬を受け取り、家族と都を離れたことになっているのだ!
 どうやら、彼は荷車を守ってきた内官たちの中に紛れていたようである。夜陰のせいと李蘭輝にばかり気を取られていたこともあって、内官の存在を見過ごしてしまったのだ。
 考えられない失態であった。
 内官は小腰を屈めて直善の前に進み出、へつらうように言った。
「私めも満更、棄てたものではございませんでしょう?」
 直善がゆっくりと頷く。
 文龍は油断なく、凛花に眼を移す。幸いなことに、内官の思わぬ登場で、直善は凛花から意識が逸れたらしい。凛花の首から直善の手が放れ、とりあえず生き返ったような気持ちになった。
 いきなり手を放された凛花は、急に大量の空気が肺に入り込んできたせいで、せわしなく荒い呼吸を繰り返した。喉許を押さえ、その場に頽れて烈しく咳いた。
 文龍は咄嗟に駆け寄りたい衝動を堪えた。
 今はこれ以上、直善を刺激しない方が良い。折角、凛花から直善の注意が逸れたのに、文龍が凛花を気遣う様子を見せれば、また妬心を燃やし、凛花に酷いことをしかねない。
 文龍は、座り込んで咳き続ける凛花を気にしながらも敢えて素知らぬ顔を通した。 
「ああ、役に立ったとも。今回、機先を制し義禁府の動きを封じられたのも、すべては、そなたが私に情報を流してくれたからだ」
 内官はまるで餌を投げ与えられた野良犬のように、嬉しげに頭を下げた。文龍の方に向き直ると、人が変わったように横柄な口調で言う。 
「貴様がまだ知らなかったことがある。この一件には、右議政のご子息が拘わっていたんだ。先日、私を脅してきた時、貴様の口から若さまの名は出なかった。ゆえに、敢えて黙っていたんだ」
「そなた、初めから私を欺くつもりだったのだな」
 口惜しさと屈辱に拳を握りしめる。
 内官の傍らで、直善が薄ら笑いを浮かべている。―かと思ったら、直善はいきなり抜刀した。鈍い光を放ち煌めきながら、刃が内官の小さな身体に振り下ろされる。
 血飛沫が辺りに飛び散り、内官は音を立ててその場に転がった。その表情は驚愕に違いなく、どうして自分が味方したはずの直善に斬られなければならなかったのかと問いかけているようでもある。
 凛花はその瞬間、思わず顔を背けた。
「そなた―」
 文龍、茫然と呟く。
 血の海に最早、骸となり果て倒れ伏している内官を眺めた。
「何故、殺したのだ」
「裏切り者の犬は殺すまで。代わりは幾らでもいる」
「この男は、私を裏切ったのだ。そなたを裏切ってはおらぬ」
「実に愚かな男だ。笑えるくらいに愚かだな。自分の生命が風前の灯火だというのに、他人の―しかも自分を裏切った奴のために怒るのか? 貴様のその正義感溢れる善人面を見る度に、反吐が出そうになる」
 直善が吐き捨てるように言った。
 文龍は口惜しげに唇を噛む。
 我が身の迂闊さが悔やまれてならなかった。これだ、この(内)男(官)の裏切りこそが文龍の感じていた〝違和感〟の正体だったのだ。
 しかし、状況がどう動こうと、みすみす彼を消そうとするのが判っている相手(直善)―右議政側に内官自身が情報を洩らすとは到底、考えなかった。それも事実ではあった。
 内官は直善の狡猾さも冷酷さも見抜いていなかった。文龍の説得で、得心したのだとばかり思っていたが、それは見せかけにすぎなかった。大方は文龍が与えた金子よりも更に多くの報酬を直善から引き出すつもりだったに相違ない。それほどに愚かだったのだ。
 突如として、玲瓏な声が響き渡った。
「若さま、今宵は実に面白き芝居を見せて頂きましたよ」
 一時、雲が月を隠し、辺りは再び闇に呑み込まれたような暗黒の世界の底に沈んだ。
 ほどなく月が現れる。
 凛花はつられるように空を見上げ、悲鳴を上げた。
 月が紅く染まっていた。そう、ひと月前、申家の屋敷で文龍と二人、これと全く同じ月を見たはずだ。死人の血のように紅蓮に染まった月。
 更に、月に照らし出された声の主を見た時、凛花は息が止まるかと思った。
 この世にこれほどまでに美しい男がいるとは信じられない。月の光に煌めく長髪は人の心を惑わす黄金の輝きを放ち、女の凛花よりも透き通る白い膚はなめらかだ。
 くっきりとした輪郭を描く瞳は海の色に染まり、妖しく光っている。
 この男は美しい魔者だ。全身から尋常でない殺気を放っている。まるで研ぎ澄まされた氷の剣のようでさえあった。
 この時、凛花の中で閃くものがあった。
 この男だ、この美貌の男が今し方、文龍の大切な親友であり相棒であるチョンピョンを殺したのだ。チョンピョンが殺られたときは、あまりにも早い動きで、容貌までは識別できなかった。しかし、すらりとした長身や髷も結わず背中で緩く束ねただけの髪型―その特徴だけは忘れるはずもない。
 凛花は艶めかしい美貌の男を愕然として見つめるしかない。あれだけの神技ともいえる剣を使う男だ。なるほど、全身から凄まじい殺気を放っていたとしても不思議はない。