九十九
日差しに照らされた中庭に、人の姿は無かった。校内に響く講義開始のチャイムが、やけに遠く感じた。
二つ目の講義に出るのが億劫で、逃げるように中庭に駆け込んだ。
一瞬だけ目が合った秀久は何かを言いたそうに口を開いたけれど、追いかけては来なかった。その方がありがたいはずなのに、何故だか淋しかった。増していくもやもやに、泣き出しそうになっている自分がいる。その理由すらつかめないまま、ただ、感情ばかりが鮮明で。
何をやってるんだろう。ため息をついて、そばのベンチに腰を下ろす。いつもの、特等席。
鞄を探り、目当てのノートを取り出す。青い装丁の分厚いノートは、既に半分が埋まっている。悲しいとか、苦しいとか、そんな言葉で。
優しいだけじゃ、生きていけない。
だって、そんなに人格者じゃないから。毎日何かに傷付いて、怒って、悲しんで。そんなことばっかりだ。
だから、青いノートに書き込むんだ。心を捨てるみたいに。優しさの邪魔になる感情を、自分の中から追い出すために。
急に、朝日の中で感じた気持ちの呼び名を思い出した。あの、淡い水色のような、締め付けられるような気持ち。
切ない。
白紙のページにまた一つ、心を捨てた。その時だった。
書いたばかりの文字から、インクが滲んだ。黒い、インク。それが染みのようにどんどん溢れて、白いページを塗りつぶしていく。驚いて手を離そうとした途端に、手のひらに鋭い痛みが走った。セミの声が、遠のく。
声を上げる暇もなかった。
真っ黒なインクは黒い霧に変わって、ノートの境界を越えていく。闇だと気付いた時にはもう、黒いもやが視界を覆っていた。息ができなくて、苦しい。まるで見えない手に喉元を締め付けられているみたいだ。
殺されてしまう。ぼんやりと、そう思った。
空気を求めて喘いだ瞬間、闇の中に、自分の姿が見えた。
等身大の鏡に写し出されたような。あれは、自分の心だ。濃い霧がたち込めているせいで、顔が見えない。けれど、目元から流れる涙だけは、はっきりと見えた。
悲しんでいるのは、捨てられたらからか。闇に呑まれて、苦しんでいる。近付こうとした瞬間、誰かに手を引かれた。
何かに薙ぎ払われたかのように、空気が動く。闇が揺らいで、散っていく。私の心も、一緒に。
緑色の目が、見えた。怒ったような、そのくせどこか安心したような、目が。
気が付くと、いつもの大学の中庭だった。黒い霧なんてどこにもない。まるで、掻き消された白昼夢のように。
目の前に、秀久が立っていた。青い装丁のノートを持って。
「やめたほうがいいって言っただろ」
青いノートが闇を寄せるから。中に書かれた言葉が。捨てられた、気持ちが。
手のひらが妙に痛むと思ったら、皮膚が浅く切れていた。
「なんで、わかったの?」
差し出されたノートを受け取る。秀久は、答えてくれなかった。いつものように無愛想に、別に、としか。
ノートを開いてみたけれど、黒い染みなんてどこにも無かった。ただ、冷たい言葉だけが並んでいる。ただの、言葉。感情の籠もっていない、言葉。自分の一部が、なくなっていた。
「全部、払った。心だけ助けるなんて、できないから」
インクが滲んだ。紙面に落ちた、涙のせいで。文字が薄れて、読めなくなる。
「どうしようもなかったんだよ」
怒りも悲しみも、感じずに生きることができないから。捨てることしか、思いつかなかったから。
「捨てなくていい。闇なら、払ってやるから」
素っ気なく言って、秀久が背を向ける。いつものように、気まぐれ。
「ああ。そっか」
急にいつかの夏のことを思い出して。クリームソーダみたいな色彩を思い出して。言葉が、口から零れた。