九十九
ふう。あなたは、闇を寄せやすい子だわ。私と同じ。
母が、私の目の前の空気を薙ぐ。まるで、そこに溜まった見えない煙か、霧を散らすように。あの時、母には何が見えていたんだろう。
ふう。人を妬んだり、恨んだりしてはだめ。怒りや悲しみは、闇を呼ぶから。
闇に、殺されてしまうから。
母があまりに真剣な面差しをするから、幼かった私は、ただ頷くことしかできなかった。母は何もわからないまま頷く私を、安心したように見つめていた。
草いきれ。夏の空気。儚い風鈴の音。夢だ、と気付いた瞬間に、目の前の風景が揺らぎ始めた。薄れていく夢の中で、ほんの一瞬、緑色の目を見た。
目を覚ますと、障子越しに差し込む朝日が眩しかった。母の夢を見たのは、ずいぶん久しぶりだ。
夢の中で、母は秀久と同じ言葉を使っていた。闇を呼ぶ、と。
その言葉は、確か祖母も口にしていた。あれは、母の葬儀のときだった。爽香は闇に喰われたのだ、と。
恨みや妬みが闇を寄せるのなら、母は何を恨んだのだろう。私たちを捨てた父か、それとも、自分自身か。
優しくありなさい。
母の言葉を、彼女がいなくなってしまった今でも、事あるごとに思い出す。どんなときでも、優しくありなさい、と。
忠実に守ってきた、約束みたいなものだった。どんなときでも、背くことのできない約束事。だけど、それは時に、私にとっての枷のようでもあった。
だって、優しいだけじゃ生きていけないから。
心が、もやもやした。怒りと呼ぶには淡すぎて、悲しみより儚い。薄い、ペールトーンの水色みたいな、そんな感情。
母のことを思い出すときは、いつもこんな気持ちになる。この気持ちの呼び方はわからないけれど、この感情が闇を呼ぶことは、なんとなくわかっていた。わかっていても、どうしようもないけれど。
暗い気分は、学校に着いても晴れなかった。
チョークの立てる硬い音。黒板に並んでいく文字の羅列。ざわめきと、笑い声。そこに微かに母の声が混じって聞こえた気がして、耳を澄ませてみる。幻聴だってことくらい、わかっていたけど。
集中できない。
心が、ざわめく。理由もないのに、漠然とした圧迫感に苛まれる。息苦しいような、妙な感覚。
そのとき突然、建て付けの悪い引き戸が勢いよく開いた。教室が、静まる。
乱暴に戸を閉めて、入ってきたのは秀久だった。耳が痛いような沈黙を少しも気にしない様子で、堂々と。
「遅刻だぞー」
妙に間延びした講師の声を合図に、ざわめきが戻ってくる。
秀久は空いた席をいくつも無視して、私の隣に座った。空気が揺らいで、息苦しさが少しだけ和らぐ。
柴本君ってさ、なんか格好いいよね。ちょっと変わってるけど。
隣の机で、噂話が始まった。密やかに。楽しそうに。
でもさ、なんでいつも佐伯さんと一緒にいるんだろうね。
他意のない言葉だ。悪意があるわけじゃないはず。だけど、そうは思っていても、傷付くんだよ。
隣で、秀久が欠伸をした。そのついで、とでも言うように、素っ気なく口を開く。
「あのさ。聞こえてんだけど」
それほど大きな声でも無かったのに、クラス中の視線が集まる。好奇の視線。冷やかすような目。非難の顔。
注目されるのは、嫌いだ。人の目は、怖いから。
「見るほどのもん?」
秀久の気だるげな一言に、向けられていた視線が外れる。けれど、終業を知らせるチャイムが鳴るまで、私はずっと顔を伏せていた。