九十九
うだるような風が、頬を掠めていく。
キャンパスの中庭。青い芝生と、しゃれたベンチ。あちこちに立つ木々が木陰を作っているけれど、人の数は少ない。暑いのだ。エアコンの効いた部屋より、外の熱気の方がマシだと言い張る変わり者なんて、自分くらいのものだと思っていた。
だから、隣に誰かが座る気配には少しだけ驚いた。
膝の上に広げたノートから顔を上げると、柴本秀久が眠たそうに空を見上げていた。その、緑色の目がふいに自分に向けられたから、何か言わなければと焦る。
「珍しいね。暑いのにこんなとこ来るの」
「別に」
勝手に隣に座ってきた長身の男は、いつもの調子で愛想の欠片もない返事をした。あっさりと外された視線は、また青い空に向く。
秀久と初めて会話をしたのは、数ヶ月前。五月のことだった。その日は丁度、自分の二十歳の誕生日だったから、よく覚えている。
本当は、大学の入学式のときから知っていたのだけれど。だって、恐ろしく目立つのだ。高い身長とか、驚くほど痩せた体格とか、無愛想な雰囲気とか。それ以前に、白に近い淡い金髪と、エメラルドみたいな緑の目が。
大学二年目の五月に初めて会話をするまで、ずっと外国人だと思っていた。だから、その外見と秀久なんてどこか古風な名前のギャップには、驚くほどインパクトがあった。それまで一度も喋ったことすらない相手から言われた、誕生を祝う言葉なんかよりずっと。
「その髪、染めてるの?目も、カラーコンタクト?」
お礼より先に、出てきたのは質問だった。あのとき浮かべた秀久の呆れた表情を、思い出しては今でも時々笑っている。
あの日から、秀久はふいに私の前に現れることが多くなった。授業の合間とか、お昼休み。放課後なんかも。
「変わり者は、お互い様」
思い出したように、秀久が口を開く。さっきの会話の続きだと気付くのに、時間がかかった。秀久は、いつもこうだ。マイペースというのだろうか。言動はいつも彼自身の思いつきに因っている。気まぐれ。
「普通女って、日焼けがイヤだの汗かくだの言って、部屋から出ねえじゃん」
「うん。そうかも」
秀久の言う普通の女の子たちは、今頃きっとモルタル塗りの校舎の中で、おしゃべりに花を咲かせている。根も葉もない噂話とか、誰かの陰口とか。
隣で秀久が大きな欠伸をした。
ねえ。私たちのことも、噂されているんだよ。他意はないけどどこか冷たい。そんな言葉で、好き放題に評価されてる。
そう言おうと思ったけど、やめた。膝の上のノートを閉じる。
ニレの木陰のベンチ。木漏れ日を受けて、眩しそうに秀久が目を細めた。透き通る、エメラルドグリーン。不意に、この色を、どこかで見たことがあるように感じた。どこだったか。いつだったか。緑色の目を、確かに見た。
「なんか、クリームソーダみたい」
秀久の髪と目の色合いが、そんな風に見えた。言葉にしてから、急におかしくなった。声に出して笑った。秀久は、笑わなかった。木漏れ日が弾けた。そんな風に、見えた。きれいだった。
秀久がもう一度大きな欠伸をした。それから 、口を開いた。
「ふう」
秀久は、私をふうと呼ぶ。私のことをふうと呼ぶのは、亡くなった母と、彼だけだった。みんな、佐伯さんか風香ちゃんと呼ぶから。
「それ、止めた方がいい」
それはどこか冷めた言い方だった。不快な気分にさせてしまったのかと思って、慌てて弁解する。
「ごめん。きれいだなって思っただけで」
しかし、秀久は何も言わずに首を振った。人差し指が、私の手元のノートを示す。途端に、息が詰まる思いがした。知っているのかな。秀久は、このノートの中身を。
そんなはずない。だって、誰にも見せていない。
「いろいろ、寄って来てる」
秀久の右手が、すい、と動く。目の前の空間を薙ぐように。懐かしい仕草だと、思った。
「何、言ってるの?」
よく、わかんない。そうごまかすと、秀久は何も言わずに立ち上がった。そのまま、どこかへ歩いて行ってしまう。名前を呼んだけれど、姿勢の悪い背中は振り向きもしなかった。ただ、意味の掴めない言葉だけが私の隣に残された。
「闇には、気をつけろよ」
暗いな。そう思って空を見上げると、いつの間にか日が陰っていた。冷たい雨粒が頬に当たる。夕立の、最初の一粒だった。