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九十九

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あれは、夏のことだった気がする。
 焼け付くような日差しと、涼やかな部屋。強い光と、正反対に黒い影。強烈なコントラスト。
 開け放した雨戸と、縁側の向こうの乾いた土。青々とした庭木。小さな池に流れ込む水のせせらぎ。舞い込んだ風が、風鈴を掠めた。音が、鳴った。
 ちりん、と。
 耳の底にへばりつくようなセミの鳴き声とは異質な、澄んだ金属音。それがあまりにきん、と冷たかったからだろうか。音が、消えたような感じがした。微かな音色が消えるまでの、束の間の静寂。そして、甦る夏の音。
 何かに呼ばれたような気がして、縁側に出た。
 猫が、いた。祖父の愛車。年季の入った軽トラックのタイヤの影から、優雅な足取りで登場し、沓脱ぎ石の脇に座る。
 うちの猫じゃない。けれど昔、怪我をしているのを母と二人で助けたことがある。いじめられたのだ。この猫は、尾が普通じゃないから。
 周りとうまく折り合えないで苦しむ姿が、どこか、自分に似ている気がして。放っておけなくて、助けた。あの時は逃げてしまったけれど、あれ以来、毎日のようにうちに来てくれる猫だ。
 散歩道なのか、きまぐれなのか、それとも。
「ふう」
 今度こそ確かに、名前を呼ばれた。消え入りそうな、小さな声で。誰より好きな、母の声。
 日差しの降り注ぐ縁側を離れ、畳敷きの和室に戻る。涼しい風が吹き抜けていく。また、風鈴が鳴った。
 風の通り道に敷かれた布団の脇に座ると、母は私の手を取った。細くて長い指。力のない、けれど、暖かい手。大好きな、母の。
「優しくありなさい」
 繰り返し、繰り返し。何度も、何度も。母は、いつも笑顔でそう言う。なぜだか悲しくなるような、淋しい笑顔で、いつも。
「どんなときでも、優しくありなさい」
 そうすれば、九十九(つくも)の神様があなたを助けてくれるから。
 私は母の手を握り返して、大丈夫だよ、と答える。何度も、何度も。繰り返して。
 庭先で、猫が鳴いた。
 どうして、うちに来てくれるんだろう。ふと、そんなことを考えた。散歩道なのか、きまぐれなのか、それとも。誰かに会いに来ているのか。私にそれとも、母に。
 風鈴の音が、セミの声に重なる。妙に淋しくて、切なくて、空虚。そんな音色だった。冷たい、音色だった。
 あれは、夏のことだった気がする。幼い頃の、夏。母がいた、最後の夏。
 それとも、あれは、夢の中のことだっただろうか。

作品名:九十九 作家名:依織