不倫ホテル
それから彼女は黙ったまま、車を発進させた。駐車場を出て、繁華街の中の大きな道を過ぎて僕の店まで送ってくれた。僕はさっきのキスのことは聞かなかった。
いきなり発作のように唇を奪い合った二人はいないかのようだった。
紗枝子が黙っていたから、僕も喋らないでいた。
店の駐車場で降りる時、僕はもう一度というようにキスをしようとした。
紗枝子は知らないふりをした。さっきまでの情熱は微塵もなかった。だけど、ドアを閉めてさよならをする時は笑みをくれた。
少し安心した僕がいた。車は赤いバックライトを点けてゆっくり帰って行った。
嵐のような、あの紗枝子のキスはなんだったんだろうか?
不倫という背徳感に情熱を掻き立てられたのだろうか?
僕は紗枝子の大人すぎる唇の動きと、柔らかい匂いに心が揺れた。いっぺんに心を持っていかれた。
1週間後、もう来ないのかと心配してた頃、彼女はお店にやってきた。
また父親と一緒だった。キスの事なんかなかったように普通に話しかけてきた。僕だって普通に話しかけるしかなかった。
その日初めて、父親という男性から声をかけられた。少し驚いた。
「君が優君かね・・歳はいくつだ?」
「エッ、はい37歳です」優君といわれて驚いた。彼女は僕のことを喋ってるらしい。
「いいなぁ~若いといいなぁ~・・・」低い声で老人のような喋り方だった。
それ以外は何も言わなかった。
そしてこの前のように3人で試着室に入り、僕は前回よりさらにドキドキして彼の前で紗枝子の着替えを手伝った。それが紗枝子の希望だった。
キスをした仲だから明らかに僕は紗枝子を見る目が違っていた。それを悟られないように普段より丁寧に接客した。
しかし、父親を連れて試着室にこもるなんて、今だかってそんな客はいなかった。
ファザコンという言葉は知っていたが、ちょっと異常すぎるのではなかろうかと思っていた。
うちの店の上客であるから、下手な詮索は止めることにした。お金持ちにはわれわれ庶民には分からない世界があるのだ・・という気持ちで割り切った。
ヘンな疑いを寄せる従業員にも、普通に接してくれと頼んだ。くれぐれも取り扱い要注意でと。上客を逃したくなかった。というか、僕が紗枝子を逃したくなかった。
あの激情的なキスをもう一度味わいたかったのだ。