カラスの濡羽色
* * *
あの日、父ハーンは徴税官モンドの屋敷に行っていたの。
徴税官とはその名の通り税金を集める役割を担う役人のことよ。
モンドはアルザットに送るべき税金の一部を着服していたわ。
そのことに気が付いたハーンは、それを止めさせようとして説得に行ったの。
どういう話になったのかは分からない。ハーンはきっとアルザットやエルセントの役人に報告すると言ったんだと思う。モンドは誰かに言われたからって素行を改めるようなタマじゃないもの。
ハーンの帰りが遅いことを心配したメリルが、「迎えに行く」と言い出したの。嫌な予感がしていたから、「わたしの方が早いから」と言って、わたしがモンドの屋敷に向かったわ。
案の定、ハーンは捕らえられていたわ。殴る蹴るの暴行を受けて、体中が青痣だらけだった。
助けようとしたら、彼は自分よりもメリルとギルバートを守って欲しいと言ってきた。
目の前で妻と子供が暴行を受けるなんて、彼には耐えられなかったのよ。
家にはわたしがいるから大丈夫だと思っていたのに、わたしは彼のところに来てしまった。
彼は「早く戻れ」と怒鳴ったわ。言われた通りに、わたしはすぐに戻った。
おかげで何とか間に合って、メリルとギルバートを連れて家を脱出できたのだけれど、その際にわたしが数人を気絶させたことで、逆上させてしまったの。
モンドの手下たちは、獣を狩るかのようにわたしたちを森へと追い立てた。
わたし一人なら、武装した一般人が十人いようと物の数じゃない。
でも、メリルとギルバートの前で人を殺すことはできなかった。
わたしは恐れていた。
家族という宝物を失ってしまうことが怖かった。
そんなわたしの愚かな迷いが、メリルの命を奪ってしまった。
放たれた矢。
わたしの前に飛び出すメリル。
矢はメリルの胸に深く突き刺さった。
「ギル、見張り小屋まで走りなさい。お父さんの部下がいるから」
嫌がるギルバートを強引に走らせたわ。
血の雨の中を踊り狂うわたしの姿を見せられるわけがないもの。
その場にいたモンドの手下七人すべてに致命傷を与えた。
しかし、すぐには絶命しないし、意識を失うこともない。長く長く苦しんで、苦しみ抜いた挙句に死んでしまえばいい。
心底そう思った。
すべてを終わらせてからメリルの元へ駆け寄ったわたしは、間違いなく暗殺者“カラス”だった。
全身に浴びた血の雨と泥とで、真っ黒に穢れていた。
彼女はそんなわたしの頬を撫でてくれた。
そのときやっと、わたしは自分が泣いていたことを知った。
メリルの手は驚くほど冷たかった。
メリルの唇が動く。けれど声は聞こえない。喉と顎の形から、何を言おうとしているのかを読み取る。
“カラス”の技術がこんなことに役立つなんて皮肉だ。
雨がポツリポツリと降り出した。
夕方に見えた雲の形から、夜には雨が降ることは分かっていた。
「無事でよかった」 メリルはそう言っていた。
「お母さん! お母さん!!」
矢はメリルの肺を破っていた。流れ出た血が気道を埋め尽くし、呼吸困難によって死に至る。それは長い苦しみを伴う行程となる。
ちゃんとした技術と設備があれば、充分に助かる傷だ。
けれど、このクルンクルンの街には、そんな技術を持った人も、そんな設備も、ありはしない。
「二人をお願いね」
口から血を溢れさせながらも、メリルはそう言っていた。
「お母さん……」
わたしはそのあとに何という言葉を続けたかったのだろう。
それは『ありがとう』でも『ごめんなさい』でもなかったと思う。
きっと、きっと違う。
わたしには人を殺すことしかできない。
左手には母の手を。
右手には黒い刃を。
痛みを感じさせずに意識を一瞬で奪い去る場所へと突き立てる。
そうして、
弱々しくも握り返してくれていた力が、
ふっ……と、
抜けた。
わたしが躊躇しなければ!
こんなことにはならなかったのに!
わたしはモンドの屋敷へと向かった。
屋敷にたどり着き、ハーンが捕らえられていた部屋に入ると、そこにはかつて“父”であった“塊”があった。
守りたかったものは壊れてしまった。
わたしには人を殺すことしかできない。
わたしはただ黒いだけだ。誰もが羨む“カラスの濡羽色”になんてなれはしない。
人間の身体に、母の身体に刃を突き立てても、なんとも思わない。
辛くもない、悲しくもない。
わたしはイニシエの悪魔ジャック・ドー。
黒き二本の刃を翼に見立て、闇夜を華麗に舞い踊り、世界に赤き雨を降らせるのだ――
……それから
どれほどの腹を裂き、どれほどの血を浴びて、どれほどの魂を喰らったのか。
気が付けば、わたしの前には不敵な笑みを浮かべたモンドが立っていたんだ。
あの日、父ハーンは徴税官モンドの屋敷に行っていたの。
徴税官とはその名の通り税金を集める役割を担う役人のことよ。
モンドはアルザットに送るべき税金の一部を着服していたわ。
そのことに気が付いたハーンは、それを止めさせようとして説得に行ったの。
どういう話になったのかは分からない。ハーンはきっとアルザットやエルセントの役人に報告すると言ったんだと思う。モンドは誰かに言われたからって素行を改めるようなタマじゃないもの。
ハーンの帰りが遅いことを心配したメリルが、「迎えに行く」と言い出したの。嫌な予感がしていたから、「わたしの方が早いから」と言って、わたしがモンドの屋敷に向かったわ。
案の定、ハーンは捕らえられていたわ。殴る蹴るの暴行を受けて、体中が青痣だらけだった。
助けようとしたら、彼は自分よりもメリルとギルバートを守って欲しいと言ってきた。
目の前で妻と子供が暴行を受けるなんて、彼には耐えられなかったのよ。
家にはわたしがいるから大丈夫だと思っていたのに、わたしは彼のところに来てしまった。
彼は「早く戻れ」と怒鳴ったわ。言われた通りに、わたしはすぐに戻った。
おかげで何とか間に合って、メリルとギルバートを連れて家を脱出できたのだけれど、その際にわたしが数人を気絶させたことで、逆上させてしまったの。
モンドの手下たちは、獣を狩るかのようにわたしたちを森へと追い立てた。
わたし一人なら、武装した一般人が十人いようと物の数じゃない。
でも、メリルとギルバートの前で人を殺すことはできなかった。
わたしは恐れていた。
家族という宝物を失ってしまうことが怖かった。
そんなわたしの愚かな迷いが、メリルの命を奪ってしまった。
放たれた矢。
わたしの前に飛び出すメリル。
矢はメリルの胸に深く突き刺さった。
「ギル、見張り小屋まで走りなさい。お父さんの部下がいるから」
嫌がるギルバートを強引に走らせたわ。
血の雨の中を踊り狂うわたしの姿を見せられるわけがないもの。
その場にいたモンドの手下七人すべてに致命傷を与えた。
しかし、すぐには絶命しないし、意識を失うこともない。長く長く苦しんで、苦しみ抜いた挙句に死んでしまえばいい。
心底そう思った。
すべてを終わらせてからメリルの元へ駆け寄ったわたしは、間違いなく暗殺者“カラス”だった。
全身に浴びた血の雨と泥とで、真っ黒に穢れていた。
彼女はそんなわたしの頬を撫でてくれた。
そのときやっと、わたしは自分が泣いていたことを知った。
メリルの手は驚くほど冷たかった。
メリルの唇が動く。けれど声は聞こえない。喉と顎の形から、何を言おうとしているのかを読み取る。
“カラス”の技術がこんなことに役立つなんて皮肉だ。
雨がポツリポツリと降り出した。
夕方に見えた雲の形から、夜には雨が降ることは分かっていた。
「無事でよかった」 メリルはそう言っていた。
「お母さん! お母さん!!」
矢はメリルの肺を破っていた。流れ出た血が気道を埋め尽くし、呼吸困難によって死に至る。それは長い苦しみを伴う行程となる。
ちゃんとした技術と設備があれば、充分に助かる傷だ。
けれど、このクルンクルンの街には、そんな技術を持った人も、そんな設備も、ありはしない。
「二人をお願いね」
口から血を溢れさせながらも、メリルはそう言っていた。
「お母さん……」
わたしはそのあとに何という言葉を続けたかったのだろう。
それは『ありがとう』でも『ごめんなさい』でもなかったと思う。
きっと、きっと違う。
わたしには人を殺すことしかできない。
左手には母の手を。
右手には黒い刃を。
痛みを感じさせずに意識を一瞬で奪い去る場所へと突き立てる。
そうして、
弱々しくも握り返してくれていた力が、
ふっ……と、
抜けた。
わたしが躊躇しなければ!
こんなことにはならなかったのに!
わたしはモンドの屋敷へと向かった。
屋敷にたどり着き、ハーンが捕らえられていた部屋に入ると、そこにはかつて“父”であった“塊”があった。
守りたかったものは壊れてしまった。
わたしには人を殺すことしかできない。
わたしはただ黒いだけだ。誰もが羨む“カラスの濡羽色”になんてなれはしない。
人間の身体に、母の身体に刃を突き立てても、なんとも思わない。
辛くもない、悲しくもない。
わたしはイニシエの悪魔ジャック・ドー。
黒き二本の刃を翼に見立て、闇夜を華麗に舞い踊り、世界に赤き雨を降らせるのだ――
……それから
どれほどの腹を裂き、どれほどの血を浴びて、どれほどの魂を喰らったのか。
気が付けば、わたしの前には不敵な笑みを浮かべたモンドが立っていたんだ。