カラスの濡羽色
フロンティアにあるとはいえ、エルセント王国に属するクルンクルンでは税が徴収される。その税金の一部が、生活費として駐屯兵たちに支給されている。
徴収された税は、十五年前までの国境であったアルザットの砦に集められ、その後エルセントへと搬送される。
ここクルンクルンには、二人の官吏(かんり)がいる。官吏とは国から派遣されている役人のことだ。
街の治安維持、周辺警護のために派遣されている警備責任者の駐屯兵長ハーンと、徴税官として派遣されているモンド。
この二人が街のすべてを取り仕切っていた。
……そう、取り仕切っていた。過去形だ。
いまは徴税官モンドが両職を兼任し、事実上の街の支配者となっている。
わたしを養女として迎え入れてくれたハーンは、すでにこの世の人ではない。
街周辺を巡回中に、魔獣と遭遇し喰い殺された。その妻メリルは、夫の死を嘆き、後を追って自ら命を絶ち、息子ギルバートは行方不明という扱いになっている。
これらに事実は唯の一つもない。すべてはあいつ、徴税官モンドが仕組んだこと。
ギルバートは父を探しに山の森へ入り、父ハーンと同様に魔獣に喰い殺されたのだ、と街の人たちは思っている。
わたしは一夜にして家族三人を失ってしまった。
その後、わたしはマチルダの食堂に住み込みで働くようになり、以前のように鉱山の仕事を手伝うことは無くなった。
街の人たちがわたしに優しくしてくれるのは、そういう事情があるからなんだと思う。
みんなみんな、優しすぎるんだ。
なのにわたしは、自分のことばかりだったような気がする。
何も知らない無関係な人間の『外からの同情』だと軽んじていなかっただろうか。
ギルバートの無事を知って、いろんなものから目を逸らしていたことに気が付けた。
わたしはこのままこの街から脱出していいのだろうか?
わたしが守るべき家族はギルバートだけなのだろうか?
* * *
「じつは、慣れない山道を歩いてへとへとなのです」
バトー・ナインハルトは、モンドへの挨拶を翌日以降に延期したい旨を伝えた。
マチルダは反対しなかった。
わたしは彼を食堂の二階にある空き部屋案内した。マチルダが変な気を利かせて、彼を泊めることにしたんだ。
おそらくだけれど、街の人たちはわたしと彼が結婚するのだと思い込んでいる。彼はわたしを迎えに来ただけで、嫁ぎ先となる家まで送り届ける案内人でしかないのよ、と何度も説明したのに、「だから、迎えに来たんだろ?」とニヤけて笑っていた。
仕事が終わったら酒盛りだ、と嬉しそうだった。
部屋に着いたわたしは、寝具の準備をし、続いて各所に軽く濡れ拭きを掛けた。
この部屋に案内したのには理由がある。
廊下の古い床板は、どんなに慎重に歩いてもギギと軋む。わたしの耳がその軋みを聞き逃すことはない。盗み聞きをされることがないここならば、安心して話すことができるからだ。
バトー・ナインハルトというのは偽名らしい。
本当の名前を訊ねると、はにかみながら困ったように言った。
「いまは……ナイン」
体躯に見合わぬ幼なさの残る面持ちからは、揺らぐことのない芯の強さと、揺らぐことを知らぬが故の脆さが伝わってきた。
その空気は答えを求めて歩く者だけが持っているものだ。
わたしは何も知らない小娘でしかないけれど、不思議と間違いないと思った。
「お歳はおいくつなんですか?」
「十七です」
「はぁ!? 年下なの!?」
わたしは十八歳なのだけれど、彼はとてもとても年下には見えない。その落ち着いた物腰は、二十をいくつか超えているとしか感じられない。
「見えないってよく言われるんですよね。ははは……」
なんだろう。この人、温かい。
「ギルはどこに?」
「アルザットの砦に。聖教会の司祭様に保護をお願いしてあります。僕は聖教会の関係者ですから、名前が利くんです」
「そう、よかったわ。それにしても、その体格で『僕』って似合わないわね」
「ほ、ほっといてください……」
彼はしゅんとして小さくなった。
カワイイところもあるじゃない。
でも、楽しんでばかりはいられない。
「わざわざあいつに挨拶することはないわ。難癖つけて拒否するに決まっているもの。最悪、アナタの命が危ないわ。街を案内する振りをして、そのまま砦に向かいましょう」
彼の視線がわたしを捕らえた。
強い意志が込められたその眼差しは、わたしの動きだけでなく、わたしの呼吸さえもその支配下におき、あっという間にわたしのすべてを軍門に下らせてしまった。
こんな経験は初めてだった。
いま何かを言われたら、わたしには首を縦に振る以外の選択肢がない。
「僕は貴女を連れ出しに来たわけじゃない。話してください。すべてを」
息が止まり、時間が止まる。
ダメだ、その言葉はダメだ。
わたしにその言葉を掛けてしまったら、わたしはおかしくなる。
肌に届いた空気の振動は、やがて耳に到達し、脳がそれを変換する。
「貴女を助けに来たのです」
ズルイ。反則だ。フェアじゃない。
この人の中には、圧倒的な説得力を持った別人が潜んでいる。
わたしがどんな抵抗を試みようとも、助けられるものかと抗ってみても、口は勝手に開いていき、声帯は声を発する準備を始める。
「はい」
違う。これはわたしの声じゃない。
これはわたしの心の声だ。
わたしの中にいる本当のわたしの声なんだ。
わたしはずっと、誰かに話を聞いて欲しかったんだ。
多くの人を殺めてきたわたしは、失った人を想って泣いてもいいのだろうか?
嘆き悲しむ権利はあるのだろうか?
大切な人に会いたいと、胸を痛めてもいいのだろうか?
誰かを守りたいと思ってもいいのだろうか?
きっとわたしは……
わたしは誰かに許されたかったんだ。
徴収された税は、十五年前までの国境であったアルザットの砦に集められ、その後エルセントへと搬送される。
ここクルンクルンには、二人の官吏(かんり)がいる。官吏とは国から派遣されている役人のことだ。
街の治安維持、周辺警護のために派遣されている警備責任者の駐屯兵長ハーンと、徴税官として派遣されているモンド。
この二人が街のすべてを取り仕切っていた。
……そう、取り仕切っていた。過去形だ。
いまは徴税官モンドが両職を兼任し、事実上の街の支配者となっている。
わたしを養女として迎え入れてくれたハーンは、すでにこの世の人ではない。
街周辺を巡回中に、魔獣と遭遇し喰い殺された。その妻メリルは、夫の死を嘆き、後を追って自ら命を絶ち、息子ギルバートは行方不明という扱いになっている。
これらに事実は唯の一つもない。すべてはあいつ、徴税官モンドが仕組んだこと。
ギルバートは父を探しに山の森へ入り、父ハーンと同様に魔獣に喰い殺されたのだ、と街の人たちは思っている。
わたしは一夜にして家族三人を失ってしまった。
その後、わたしはマチルダの食堂に住み込みで働くようになり、以前のように鉱山の仕事を手伝うことは無くなった。
街の人たちがわたしに優しくしてくれるのは、そういう事情があるからなんだと思う。
みんなみんな、優しすぎるんだ。
なのにわたしは、自分のことばかりだったような気がする。
何も知らない無関係な人間の『外からの同情』だと軽んじていなかっただろうか。
ギルバートの無事を知って、いろんなものから目を逸らしていたことに気が付けた。
わたしはこのままこの街から脱出していいのだろうか?
わたしが守るべき家族はギルバートだけなのだろうか?
* * *
「じつは、慣れない山道を歩いてへとへとなのです」
バトー・ナインハルトは、モンドへの挨拶を翌日以降に延期したい旨を伝えた。
マチルダは反対しなかった。
わたしは彼を食堂の二階にある空き部屋案内した。マチルダが変な気を利かせて、彼を泊めることにしたんだ。
おそらくだけれど、街の人たちはわたしと彼が結婚するのだと思い込んでいる。彼はわたしを迎えに来ただけで、嫁ぎ先となる家まで送り届ける案内人でしかないのよ、と何度も説明したのに、「だから、迎えに来たんだろ?」とニヤけて笑っていた。
仕事が終わったら酒盛りだ、と嬉しそうだった。
部屋に着いたわたしは、寝具の準備をし、続いて各所に軽く濡れ拭きを掛けた。
この部屋に案内したのには理由がある。
廊下の古い床板は、どんなに慎重に歩いてもギギと軋む。わたしの耳がその軋みを聞き逃すことはない。盗み聞きをされることがないここならば、安心して話すことができるからだ。
バトー・ナインハルトというのは偽名らしい。
本当の名前を訊ねると、はにかみながら困ったように言った。
「いまは……ナイン」
体躯に見合わぬ幼なさの残る面持ちからは、揺らぐことのない芯の強さと、揺らぐことを知らぬが故の脆さが伝わってきた。
その空気は答えを求めて歩く者だけが持っているものだ。
わたしは何も知らない小娘でしかないけれど、不思議と間違いないと思った。
「お歳はおいくつなんですか?」
「十七です」
「はぁ!? 年下なの!?」
わたしは十八歳なのだけれど、彼はとてもとても年下には見えない。その落ち着いた物腰は、二十をいくつか超えているとしか感じられない。
「見えないってよく言われるんですよね。ははは……」
なんだろう。この人、温かい。
「ギルはどこに?」
「アルザットの砦に。聖教会の司祭様に保護をお願いしてあります。僕は聖教会の関係者ですから、名前が利くんです」
「そう、よかったわ。それにしても、その体格で『僕』って似合わないわね」
「ほ、ほっといてください……」
彼はしゅんとして小さくなった。
カワイイところもあるじゃない。
でも、楽しんでばかりはいられない。
「わざわざあいつに挨拶することはないわ。難癖つけて拒否するに決まっているもの。最悪、アナタの命が危ないわ。街を案内する振りをして、そのまま砦に向かいましょう」
彼の視線がわたしを捕らえた。
強い意志が込められたその眼差しは、わたしの動きだけでなく、わたしの呼吸さえもその支配下におき、あっという間にわたしのすべてを軍門に下らせてしまった。
こんな経験は初めてだった。
いま何かを言われたら、わたしには首を縦に振る以外の選択肢がない。
「僕は貴女を連れ出しに来たわけじゃない。話してください。すべてを」
息が止まり、時間が止まる。
ダメだ、その言葉はダメだ。
わたしにその言葉を掛けてしまったら、わたしはおかしくなる。
肌に届いた空気の振動は、やがて耳に到達し、脳がそれを変換する。
「貴女を助けに来たのです」
ズルイ。反則だ。フェアじゃない。
この人の中には、圧倒的な説得力を持った別人が潜んでいる。
わたしがどんな抵抗を試みようとも、助けられるものかと抗ってみても、口は勝手に開いていき、声帯は声を発する準備を始める。
「はい」
違う。これはわたしの声じゃない。
これはわたしの心の声だ。
わたしの中にいる本当のわたしの声なんだ。
わたしはずっと、誰かに話を聞いて欲しかったんだ。
多くの人を殺めてきたわたしは、失った人を想って泣いてもいいのだろうか?
嘆き悲しむ権利はあるのだろうか?
大切な人に会いたいと、胸を痛めてもいいのだろうか?
誰かを守りたいと思ってもいいのだろうか?
きっとわたしは……
わたしは誰かに許されたかったんだ。