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カラスの濡羽色

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 *  *  *

「エレナ、お客さんだよ」

 わたしは食堂とは名ばかりの酒場で働いている。屋根裏の布団一枚がやっと敷けるような狭い部屋に住み込みで。
 もっと広い部屋はあるのだけれど、わたしがその部屋を望んだ。
 見慣れた顔の坑夫たちが、お世辞にも美味しいとは言えない食事を酒で流し込みにやってくる。
 坑夫たちは配膳するわたしの身体を触ろうとして手を伸ばしてくるけれど、触られたことは一度も無い。
 どうやら本気で触りたいわけではないらしい。
 毎日訪れてわたしが元気でやっているのかを確かめているうちに、ここに通うことが習慣になってしまった。
 そんなお馬鹿な人たちだ。
 みんな良い人で、わたしは大好きだ。

「あ、はい。いらっしゃいませ」
「違うんだよエレナ。あんたにお客さんだよ」
 この食堂の女主人であるマチルダは、料理の腕以外には何の欠点も無い。小太りで声が大きくて、とても気さくなオバちゃんだ。
「わたしに?」
「裏に回ってもらってるよ。お店はいいから、ゆっくりしといで」
 そう言って、含みを持たせたウインクを飛ばしてくる。

 わたしは昨夜のことを思い出す。
 目撃者はいない。尾行もなかった。考えられるのはあいつからの次の標的を伝えにきた使いの者ぐらいだ。
 白昼堂々といい気なものだ。

 裏口を開けると、目の前には壁があった。
 それは白い金属の壁。傷だらけで、描かれている模様が何なのか全く判別できなくなっていた。

「あ、すいません」
 頭上から声が降ってきた。
 壁が動き、遠退いて行く。そして視界に残ったのは、見上げるほどの大男。わたしが壁だと思ったものは、彼が背負っていた盾だった。腰に帯びた一振りの剣は、柄部分に見事な意匠が施されていたが、使い込まれた形跡が見て取れ、飾りの騎士剣ではないことが分かった。
 膝までのブーツ、手甲、金属製の胸当てというスタイル。山を登るために動きやすさを重視したのだろう。
「あなたが、エレーナさんですか?」
 大男はその体躯に似合わない低い物腰で名前を訊ねてきた。
 街の人たちはわたしをエレナと呼ぶ。
 名前をつけたメリルですらエレーナとは呼ばなかったから、街の人にエレナと間違って覚えられた。
 わたしはそれを一度も訂正したことはない。
 だから、わたしがエレナではなくエレーナだと知るのは家族だけということになる。
 この大男はギルバートに会ったのかもしれない。
 間違っていてもいい。
 ほんのわずかな可能性であろうとも、わたしはそれにすがりたいと思った。同時に、この男のことをあいつに気取られるわけにはいかないとも思った。

「あの……」 わたしは言いかけて、その言葉を止める。
 背後の閉じた裏口の戸の向こうに、聞き耳を立てる気配を感じたからだ。
 抜け目ないのね。わたしは心の中で舌打ちをする。
 坑夫の中にもあいつの手下が混じっているのは知っている。外から訪ねて来る者がいれば監視されるのは当然だった。
 状況を伝えて、ギルバートの安全を確保してもらいたい。それだけで充分だ。
 わたしは伝える方法を模索する。

 わたしが言葉を止めてから一秒。
 たったそれだけの沈黙で、大男は何かを察したように微笑んだ。
「じつは、貴女の父君からお手紙を頂きまして」
「え?」 見上げたわたしと彼の目線は合わない。
 彼はわたしの後、戸口の向こう側を見ている。
 聞き耳を立てる気配を察することができるのか、それともなんらかの事情を知っているのか。
 わたしが反応に迷っていると、彼はわたしと目を合わせてそれからまた戸口の向こう側へと視線を投げた。視線は戸口の向こう側へ、注意はわたしの顔へと向けられている。
 彼の視線は「戸口の向こう側に誰かいるのではないのか?」と問い掛けていた。
 わたしは首を縦に振った。

 彼は二つの羊皮紙を取り出し、目の前で広げてみせた。
「これは生前の貴女の父君から送られてきたものなのですが……フギンとムニンはもう飛べるようにな……」

 彼は何かを説明している。
 でも、途中からわたしの耳には届かなくなった。
 書いてあることとは全然違うことを高らかに話している。きっとそれは彼なりの優しさだ。彼の大きな声は、わたしの喜びに震える気配を包み隠してくれていた。

 羊皮紙には、弟の、ギルバートの文字でこう書いてあった。

『ねえちゃん、おいらだよ。
 目の前のニイチャンがきっと助けてくれるからね。
 おいらも行きたかったけど、心配かけないように安全なところに隠れてるよ
 カラスの話、ニイチャンにもしたよ。』

 フギンとムニンというのは、わたしが持っている雌雄一対の剣の名前で、それを知っているのはわたしとギルバートだけなんだ。
 もう一つの羊皮紙には、養女を迎え入れたので嫁ぎ先として相応しい殿方を紹介して欲しいという内容が書いてあった。これは父の文字ではない。
 筆不精だった父は、よく母に代筆を頼んでいたし、ギルバートが書いたこともあったほどだ。もともと父はエルセントにいたのだから、騎士の家に嫁ぎ先を求めたとしても、何ら不思議ではない。
 それ以前に、この手紙が本物であろうとなかろうと、どちらでもいい。
 ギルバートが安全な場所にいると分かれば、あいつの言いなりになる必要はない。少しは名残惜しいけれど、この街にいなければならない理由もない。

 ギルバートと二人でフロンティアへ行こう。
 わたしは逸る気持ちを抑えるために深呼吸をする。
 まず、ギルバートの手紙を返した。部屋に持ち帰って何度も読み返したかったのだけれど、もし見つけられてしまったら……と考えると、わたしが持っているのは危険だ。
 そして、紹介状を受け取りもう一度内容を読む。宛名には『バトー』という名が綴られていた。

「あのコたちはどこかへ行ってしまいました。そんなことより、表へまわってください。店主のマチルダに紹介します。……ええと、何とお呼びしたらよろしいでしょう?」
「バトー・ナインハルトです。ナインと呼んでください」

 彼の微笑みは、なぜだかわたしを安心させてくれた。


「いいお話じゃないか」
 マチルダは父の手紙を見て驚き、それ以上に喜んでくれた。彼女は彼女で、わたしの嫁ぎ先を案じてくれていたらしい。

 わたしはそんなこと全然知らなかった。この人もわたしを家族として認めてくれていたんだ。

 なのにわたしは……

「じゃあモンド様にもお許しをいただかないとね。よもや、ダメとは言わないだろうけどさ」

 そうだ、あいつに会いに行かないといけないんだ。
 ギルバートの安全のためにと堪えてきた衝動は、いまや束縛されることはない。
 わたしは冷静でいられるだろうか?

 ううん。大丈夫。
 これ以上わたしの手を赤く染めることはしたくない。

作品名:カラスの濡羽色 作家名:村崎右近