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カラスの濡羽色

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 わたしが訓練を受けていた隠れ里は、クルンク山の南側にあった。
 ヨーン河の支流とクルンク山に囲まれた地域は、マイラという海洋商業都市による自治が認められており、エルセント王国とは別の国という形になっている。さらに南にあるなんとかという国との緩衝地帯としての意味合いが強いらしい。
 マイラを挟んだ南北の両国の本音は、『自国に傾いていて欲しいけれども、併合まではできない』というものだ。併合してしまえば両国間での戦争が起こってしまう可能性があるからだ。そのため、マイラはどっちつかずという不安定状態を維持しなければならなかった。
 両国ともにそれを察しておきながらも、体面上『口撃』を続けなければならない。

 政治的な争いが絶えない街には、暗殺の需要がある。
 隠れ里の長は政治的な主義も主張も持っていなかったけれど、大局を見極める目だけは持っていた。
 基本的には、より多くの金を払う方に味方する。ただし、どんな大金を積まれても、決着がついてしまうような依頼は受けなかった。
 わたしたちは“カラス”と呼ばれる暗殺集団。
 黒装束に身を包み、誘拐から毒殺までなんでも請け負う。
 その対象は、妊婦も赤子も老人も、騎士も貴族も含まれる。勿論、王族であっても、だ。

 すべては金次第。

 わたしがそのマイラの首脳陣からの依頼を達成して戻ったとき、里の長はめずらしく酒に酔っていた。
 終始上機嫌で、いつになく饒舌に、わたしの仕事ぶりを褒め称えていた。
 長は『次だ』と言って羊皮紙を投げよこす。
 わたしは無言でそれを受け取り部屋を出る。
 いつもはそれだけのやりとりしかない。

「おまえのおかげで上納金が最高額だ。このままいけばオレは幹部になれる。そうすりゃこんなところとはおさらばだ」

 この男がどこに行こうが関係ない。
 標的が記された羊皮紙を投げよこす相手が変わるだけのこと。

「一緒に行かないか?」

 わたしは驚く。まるで他人事のように。
 そして不覚にも『嬉しい』と感じてしまった。
 顔色一つ変えずに人間を切り裂ける暗殺者“カラス”であっても、誰かに必要とされたいと願う想いは殺せなかったらしい。
 その想いを踏みにじる言葉がわたしの耳に届くまでわずか三秒。

 冷静に考えれば、すぐに分かったことなのに。

「おまえがいれば、どこであっても問題ない」

 優秀な手駒をわざわざ手放すことはない。
 わたしは殺しの道具。そうなるように育てられ、そうなるように作られた。
 つまりはそういうことだ。

「おまえにこれをやる」
 そう言って取り出した二振りの短剣は、今もわたしの腰にある。
 一つは両刃で幅広の短剣、もう一つは反りを持った片刃の刀。
 柄に同一の意匠が施されていて、雌雄一対だと言っていた。遥か昔に実在した最凶最悪の暗殺者が使っていたものらしい。
 どちらも刀身が黒く、わずかな光沢さえもないため、闇夜に溶け込むのだという。
 殺しの道具であり、暗殺者“カラス”であるわたしは、これを喜ばなければならない。

 嬉しいなんて言葉は、早く忘れてしまいたかった。

「しかし、いい女になったな。こんないい女になるんなら、もっと別の方法を考えるべきだった」
 わたしの左肩に置かれた手が、背中を通り腰へと回される。
 ぞわぞわと悪寒が走り、あの夜の出来事が脳裏を荒らしまわる。
「別の方法?」
 わたしの問いかけに、長は悪びれもせず話し始めた。
「オレが命じた。おまえに憎悪を植えつけるためにな」
 里の者を六人も殺したのに、何のお咎めも無かった。
 おかしいと思っていた。
 わたしに同情してくれたのだと思っていた。
 わたしに味方してくれたのだと思っていた。
 だから少しでも役に立とうと必死だった。

 謎が解ける。
 この男の差し金だったわけだ。

 すべては恩返しだった。
 何万回も謝りながら、震える手から目を逸らし、流れる涙にも気付かない振りをして、わたしの味方をしてくれたこの男のために、わたしはこの手でどれだけの血を流してきたか。
 わたしに憎悪が植えつけられたというのならば、それはこの瞬間に他ならない。

 雌雄一対の剣を受け取ったわたしは、即座に試し斬りを行った。

 赤い雨が降る。
 それはわたしの顔と身体を染め上げてゆく。

 わたしは長の質問に答えていなかったことを思い出し、静かに横たわるこの部屋の主に言葉を注ぐ。

「あなたと一緒にはイケないわ」

 里の長を手に掛けたわたしには追手が掛けられた。
 わたしはクルンク山を北へ、頂上へと向かって逃げた。
 それは何か考えがあっての行動じゃない。山を降りて街に入っても、すぐに見つかってしまうのは分かりきっていた。ついさっきまではその情報網を利用する立場だったのだから。

 強い雨が降っていた。
 その中で繰り返された迫り来る追手との戦い。
 一人一人は大した脅威にはならないけれど、なにしろ休みなく襲い掛かってくる。
 体力と精神力が、少しずつ確実に削り取られていった。

 追ってくる気配が消えたのは、何人目を返り討ちにしたときだったろう。十二からは数えるのを止めて、同じぐらいの数だけ刃を埋め込んだ気がする。
 はっきりとは思い出せないし、思い出したくもない。

 ぬかるみに足を取られ、崖を滑り落ち、川へ。
 その川が北側へと流れ出すものだったことは、不幸中の幸いだと思えた。
 その衝撃で記憶を無くしたわたしは、山中を何日も歩き続け、鉱山街クルンクルンの駐屯兵長ハーンに保護される。
 妻メリル、長男ギルバートの三人家族。
 わたしはエレーナという行方不明になった長女の名を貰い、養女としてその家族の一員になった。

 数ヶ月が過ぎ、わたしは記憶を取り戻す。
 ハーンとメリルに、わたしが何者であるのかを打ち明けた。
 それは、追手が現れた際に「知らない」と言ってもらうためのものだった。
 身の安全を確保するために利用しようとしただけ。それ以上でもそれ以下でもない。命を救ってもらったお礼だとか、巻き込みたくないとか、そんな良心的な動機は微塵もなかった。

 ……なかったはずなんだ。
 二人は『ここは安全だ』と口を揃え、わたしを引き止めてくれた。

 そのとき、わたしは初めて知った。
 自分がどんなに愚かだったのかを。
 嬉しいという言葉を忘れたいと願っていた頃の自分が、哀れで仕方なく思えた。

 これが嬉しいということなんだ。
 誰かの前で涙を見せられること。
 誰かに必要とされるために生きるのではなく、誰かを必要として生きること。
 最も縁遠かった、幸せという言葉の意味。

 それからのわたしは、鉱山の仕事も手伝うようになった。
 炊き出しや道具磨きといった、“普通の女の子”ができる仕事だ。

 『空が青いと気持ちいい』というメリルの言葉を実感できるようになった頃、硬くてボサボサだったわたしの髪は、少しだけしなやかなものになっていた。
 “カラスの濡羽色”には、まだまだ遠いけれど。

 髪を伸ばそう。
 メリルと、“お母さん”と同じ髪型にしてみたい。

 このときのわたしは、“カラス”から“人間”に戻れるような気がしていたんだ。

作品名:カラスの濡羽色 作家名:村崎右近