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カラスの濡羽色

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 わたしの名前はエレーナ。
 みんなは長音を省略してエレナと呼ぶ。
 名付け親からして省略していたのだから“ー”の立場なんてあったものじゃない。
 でも最近のわたしはエレナと省略して呼ばれることを気に入っている。なぜなら、わたしは人間として大事なものが欠落しているのだから。

 分厚い雨雲が月と星とを覆い隠し、鉱山街クルンクルンに闇夜が訪れた。
 夕方に見えた雲の形から、夜には雨が降ることは分かっていた。これで帰り道は楽ができそう。だからといって、ずぶ濡れになるのはあまり歓迎できない。
 やはり降り出す前に終わらせてしまおう、とわたしは思い直した。

 ふわり。音も無く背後に降り立つ。
 右腕を背後から脇腹を通して前へ。間を置かず手首を返して引き戻す。刃が肉を裂いて体内へと侵入する感触を確認して、すぐさま刃を捻って内部に空気を入れる。そうすれば、あまりの痛みに声も出せない。
 状況を把握するまでの一瞬でコトは終わる。
 左手を首筋に伸ばし、真一文字に切り裂く。

 それで終わりだ。


 雨が降りだした。
 赤い雨はわたしの顔と身体を濡らしてゆく。
 わずかな熱を持っていたそれらは、すぐに冷えて固まってしまった。床に流れるそれは際限なく広がっているというのに、どうやらわたしの熱では流れてくれないらしい。
 わたしは床よりも冷たい女なのだと笑われている気がした。
「その通りよね」とわたしも一緒に笑った。

 あっという間にどしゃ降りになってしまった窓の外を見て、わたしは思わずため息を漏らす。

 ―― 雨に濡れてしまうのは好きじゃない。

 “エレーナ”という少女から、人間として大事なもの“ー”を抜き取った“エレナ”。
 それがわたしの名前。

 わたしにはお似合いだ。
 自分でもそう思う。

 鉱山街の住人は、わたしの凶行をジャック・ドーの仕業だと呼んだ。伝承好きな老人たちが騒ぎ立ててくれたおかげで、いろいろとやりやすくなった。わざわざクルンク山の伝承になぞらえた、それらしい演出をしていた甲斐があった。
 それにしても、悪魔のくせにわたしが持っていない“ー”を持っているなんて、可笑しくて仕方がない。
 一度でいいから会ってみたい。悪魔が降らす赤い雨は、果たしてわたしの熱で流れてくれるのかしら。

 雨の中を走る。
 雨音が気配を消してくれるからといって、油断はしない。
 幼い頃から叩き込まれてきた技術をもってしても、一瞬の油断が命取りになることがある。
 そう、あの日も雨だった。
 追手を振り切ったと思い気を緩めた瞬間に、足を踏み外し崖下に転落。幸い落ちたところが川だったためなんとか命は取り留めたけれど、その衝撃で一時的に記憶を無くしてしまい、こともあろうに民間人に保護を求めてしまったのだ。

 数ヶ月が過ぎて、無事に記憶を取り戻すことができたわたしは、すぐに姿を消そうと思った。
 いつ追手が来るか分からない。もっと遠くへ逃げなければ。
 そう思った。何度も何度もそう思った。

 生まれて十八年、初めて触れた温かい笑顔。
 意味を持たない空模様の会話。
「空が青いと気持ちいいじゃない」
 そんな他愛も無いものが、わたしに決断を許さなかったんだ。

 わたしは雨が嫌いだ。
 名前を思い出せなかったわたしにエレーナという名前を付けたくせに、誰よりも早くエレナと呼んだあの人を思い出してしまうから。


 わたしが殺した。

 わたしに温もりを教えてくれたあの人を。


 *  *  *

 記憶を失いクルンク山中を迷い歩いていたわたしは、山の北側にある鉱山街クルンクルンに駐屯する兵士に保護された。
 記憶を失って余裕がなかったわたしでさえも、最初に聞いたときはふざけた名前だと思った。
 クルンク・ルンという読み方をする。
 クルンク山以北の地域では『ルン』という言葉は『第一歩』を示す言葉らしく、ヨーン河以東の開拓者たちが好んで使う言葉らしい。『クルンク山開拓の第一歩』という意味なのだと説明された。

 クルンク山には人間を襲う魔獣が生息するため、毎日欠かさず周辺を巡回して安全を確保しなければならないそうだ。
 わたしを見つけてくれたのは、駐屯兵長を務めるハーンという男だった。十二歳になるギルバートという息子と、メリルという奥さんの三人家族。
 メリルはわたしが記憶を失っていて名前も思い出せないと知ると、エレーナという名前を付けてくれた。
「記憶が戻るまでは、あなたは私の娘よ。もちろん、記憶が戻ったあとも娘でいてくれて構わないわ」
 こうして、わたしは父と母と弟、家族というものを手に入れた。
 わたしが家族という宝物の価値を知るのは、まだ先のことだ。

 十四年前、クルンクルンに赴任するためヨーン河を渡った際に、渡河船が河鮫の襲撃を受けて沈没してしまい、当時四歳だった娘が行方不明になったそうだ。
 その子の名前がエレーナ、生きていればわたしと同じ歳の女の子。
 そのときに行方不明になった四歳の女の子が奇跡的に助かっていて、「実はわたしでした」なんてことはない。
 現実はそんなに感動的には作られていない。
 エレーナの髪はメリルに似て綺麗な明るい紫だったそうだ。
 わたしの髪は黒い。硬くてボサボサで痛みきっている。
「黒い髪はカラスみたいで好きじゃないの」
 それでも、メリルはわたしの髪を丹念に梳いてくれた。毎日、毎日、意味を持たない空模様について話しながら。
「黒い髪は“カラスの濡羽色”といって、誰もが羨む髪色なのよ」
 黒い髪、黒い瞳、浅黒い肌。
 その特徴はクルンク山の遥か南の地方に住む人間に多く見られるのだそうだ。

 わたしに自身が生まれた場所や両親の記憶が戻ることはなかった。思い出せないのではなくて、もともとそんな記憶は存在しなかったのだろう。
 わたしは物心が付いたときには、すでに暗殺者“カラス”となるべく教育を施されていた。
 人体の構造、毒物の調合法、各種武器の扱い、徒手空拳技。
 足音を立てない歩き方、走り方。
 気配の消し方、読み方。
 光が一切入らない洞窟に放り込まれて、明かりも食料も、飲み水さえも与えられないままで数日を過ごしたこともあった。
 認めたくはないけれど、どうやらわたしには才能があったらしい。
 人を殺す才能が。
 だからというわけではないけれど、それらの訓練は楽しくもなければ、辛くもなかった。

 辛いことと言えば、一つだけ思い出したくもないことがある。
 目が覚めると、身体中が縄で縛られていた。身動きできないわたしを見下ろす男たち。わたしが女であるということを認識させられた夜だった。
 それでも感謝している。だから彼らには贈り物をすることにした。
 心臓に刃を。

 でもその前に、ささやかなお礼として自分の身体の部品とお別れする時間を、たっぷりと与えてあげた。
 どこまでの痛みなら意識を失わないのかを実践で確認できた。声も出せないほどの痛みがあるということを知ったのは発見だった。
 声も出ない、意識も失わない。
 そんなギリギリを刺激的に堪能させてあげた。


 そしてわたしは暗殺者“カラス”として完成した。

作品名:カラスの濡羽色 作家名:村崎右近