橋ものがたり〔第2話〕~恋心~ ・弐
この広い江戸で亭主を失った女が一人、生きてゆくには確かに口入れ屋の言うとおり、誰か―確かな財力を持つ男の庇護を受けるのがてっとり早い道ではある。それは即ち、ちゃんとした女中奉公などではなく、その男の慰みものになり、身体を委ねるということに他ならない。
ふいに、お民の水ごりをしていたときの姿が浮かんだ。白い夜着一枚だけの姿がずぶ濡れになり、身体の線が露わになっていた。ふくよかな乳房や、引き締まった腰から尻にかけての豊かさは二十七という女盛りの年齢を考えても、十分に魅力的で扇情的だった。
あの艶めかしい身体を、他の、どこの誰とも知れぬ男が抱くのか。お民の白い身体を、夜毎組み敷く男がいるというのか!
そんな場面を想像しただけで、源治の中で許しがたい怒りと嫉妬の焔がちりちりと燃えた。
―そんなことは、絶対にさせない。
お民が〝妾奉公なんていやだ〟と言ったとき以上に、源治は自分自身が許せないと強く思った。
他の男に―お民を単なる欲望の処理のための女としか見ない奴に渡してたまるか。
源治の中で一つの決意がやがて揺るがぬものになってゆく。
ひと度は断ったと言ってはいたけれど、もしお民が妾奉公なぞに出るく気になりでもしたらと思うと、気が気ではない。厭な男に抱かれることを我慢さえすれば、財力のある男に囲われるというのは、ある意味で安定した暮らしを手に入れるためのいちばんの近道ではあるのだ。万が一、お民がその安逸を手に入れたいと思いでもしたら。
源治は、何かこのまま放っては置けないような気がして脚を速めた。
お民が行きそうな場所を考えてみても、心当たりは思い浮かばない。
源治は我知らず苦笑していた。考えてみれば、お民のことを、源治は何も知らない。
源治がいつも見ていたお民は、陽気で朗らかで、笑顔の絶えない女だった。源治を見れば、母親か姉のような口ぶりで小言を言う。しかし、それが少しも煩いと思わなかったのは何も源治がお民に惚れているからだけではない。あの女は言いたい放題言っているように見えて、その言葉には実がこもっていた。
源治を心底心配し、気遣っているお民の心がこもっていたからこそ、源治はお民の小言や説教を不快なものとは思わなかったのだ。
源治にとって、お民は笑顔の眩しい他人の女房だった。幸か不幸か、他人の女に手を出せるほど、源治は無分別な男ではない。ましてや、お民と兵助が口では喧嘩ばかりしていても、内心は互いに惚れ合って労り合っているのがよく判ったから、邪魔をするような野暮はしたくなかった。
男なら、惚れた女の幸せを陰ながら見守るのが筋ってものじゃないか。
それは、多分、自分が格好つけたかったか、お民を無理に諦めようとしたかの口実のどちらかにすぎなかったろう。
初めて見たお民の泣き顔は源治を大いに愕かせ、狼狽えさせ、そして、彼の心にしっかりと灼きついた。惚れた女の泣き顔は、笑った顔以上に、鮮烈に源治の心を捉えたのだ。
あの女のことを、もっと知りたい。
いつも傍にいて、笑顔も泣き顔もずっと見守っていたい。
源治は和泉橋まで行ってみるつもりだった。確たる理由があるわけではなかったが、昨日もお民はあの場所で泣いていたのだ。
もしかしたら、お民にとって、あの橋のたもとは特別な意味のある場所なのかもしれない。そういえば―、お民と兵助の一粒種の兵太はあの川に落ちて、溺死したのだった。
お民にとって、あの川は倅の生命を呑み込んだ怖ろしくも哀しい場所なのだ。そんな川べりに佇み、一人で泣いていたお民の胸中を改めて思い、源治は居たたまれなくなった。
もう、二度とお民を泣かせたりするものか。
源治の心は、あの場所へと逸った。
和泉橋へと急ぐ源治の耳に、遠くから風鈴の音が響いてくる。
そのどこか淋しげな音色は源治の心の琴線に触れ、烈しく揺さぶった。どこかお民のあの泣き顔を思い出させる愛らしい音色に耳を傾けながら、源治は小走りに駆けた。
どこかでチリリンと風鈴の音がかすかに鳴った。澄んだ音色がやけに物哀しく響いてくるのは、やはり気持ちのせいだろうか。
お民は淡く微笑すると、小さくかぶりを振る。夜が更けるにつれて、風はいっそう冷たさを増してきた。
そろそろ家に戻ろうと思った、まさにその時。
「こんなところにいたのか」
聞き憶えのある声が、妙に懐かしかった。
たった一日この男の顔を見なかっただけなのに、もう何日も逢わなかったような気がする。
でも、その想いは、けして表に出してはならないものだった。そのときのお民は、まだ心の内で生まれた感情が何たるかをはきと自覚してはいなくても、そう思った。
―源さんにとって、あたしは一生、斜向かいの口うるさいおばさんくらいの位置が丁度良いんだから。
それ以上近づき過ぎてはいけない。兵助が生きていた頃と同じように、源治に特別な感情を抱くこともなく、適度な距離を保ちながら同じ長屋に住まう者同士として付き合ってゆく。
―源治を男性として意識してしまったなぞとは、たとえ口が裂けても言ってはならない。
少しの間、沈黙が落ちたのは、お民が自分の心を上手く覆い隠すために必要な時間であった。
「うん、ちょっと、冷たい風に当たりたくなっちまってね。―なんて、らしくないか」
いつものように、少しだけ横柄に、いかにも年長者らしい物言いで。
お民は自分の態度が今までと変わらぬことを祈りながら、できるだけ明るく言った。
できることなら、源治がこのまま通り過ぎていってしまってくれたなら。
そうすれば、お民の不自然さに気付くことはないだろう。
お民の眼尻には今にも溢れそうになった涙の雫が宿っていた。これ以上、泣き顔をこの男に見られてしまったら、お民はもう二度と立ち直れない。〝大丈夫か〟と優しく訊ねられたら、相手の迷惑や気持ちも顧みず、その腕に取り縋って泣いてしまうかもしれない。
お民にしてみれば、最大限の努力を払って努めてさりげなくふるまっているというのに、源治の声は怖ろしく不機嫌だった。
どうやら、この男は怒ると、声が低くなるらしい。―と、これは、つい最近、気付いたばかりだ。こんな風に抑揚のない声は、かつてお民がついぞ耳にしたことのないものだった。
「どうしてなんだ」
〝え〟と、お民は思わず振り向いてしまった。その刹那、お民の眼に宿る雫に、源治が気付いてしまったらしい。
「また泣いていたのか」
と、更に不機嫌そうに言い、眉をひそめている。
「兵さんのことを思い出していたのか?」
予期せぬ問いに、お民は眼を瞠った。
「違うよ、そんなんじゃなくて」
まさか、当の源治のことを考えていたのだとは、到底告げられるはずもない。
「あたしが川を眺めて考え事なんてしてたら、そんなに変? やっぱり、そういう柄じゃないかな」
お民は、半ば自棄のようにからからと笑った。だが、笑っている本人がその声の不自然さや、あまりに空々しいことに気付かない。
「それとも、まさか妾奉公に出るとでも?」
続いて源治の口から紡ぎ出された言葉は、更に意表を突くものだった。
お民は茫然として、眼の前の男の顔を見つめた。
―源さんって、こんなに男前だったっけ。
作品名:橋ものがたり〔第2話〕~恋心~ ・弐 作家名:東 めぐみ