橋ものがたり〔第2話〕~恋心~ ・弐
「おかしな人ね。あたしなんかに親切にしてくれて。こんな、何の取り柄もない女なんかに親切にしてくれたって、何も良いことなんてないのに。源さん、あたし、今日、口入れ屋に何て言われたと思う? 良い奉公先があるからって、何かと思ったら、妾奉公ですって。ふん、笑っちゃうじゃない。亭主を亡くした、何の取り柄もないあたしには、身体を使うことくらいしか何もできることがないんだってさ。―馬鹿にしてる。あたしは死んだっていや。そんなことしなきゃ生きてゆけないのなら、死んだ方がマシだよ」
お民は言うだけ言うと、源治の手を振り払った。
「源さんもこんな女にいつまでも構ってないで、早く良い女を見つけなよ」
お民は捨て科白のように叫び、その場から走り去った。
徳平店まで走りながら、何故だか、涙が止まらなかった。
―源さんもこんな女にいつまでも構ってないで、早く良いひとを見つけなよ。
どうして、源治にあんなことを言ってしまったのか、自分でも判らない。
源治がお民に優しくしてくれるのは、相店のよしみと、それから亡くなった兵助に源治が多少の恩義があるから、ただそれだけのことなのに。
あんなことを言えば、まるで源治がお民に気があって、親切にしてくれているのだとお民が思い込んでいるようではないか!
恥ずかしくて、思い出しただけで消えてしまいたかった。源治にしてみれば、良い迷惑、更にはとんだお笑いぐさだろう。勝手に思い込んで、余計なお節介まで焼いて、さぞ独りよがりで馬鹿な女だと呆れられているに違いない。
全く、とんだ喜劇だ。
これで、当分どころか、一生、源治に合わせる顔がない。
お民は自嘲めいた気分で考えた。もう泣く気にもなれず、力ない脚取りで長屋までの道を歩き続けた。
翌日の夜。
お民は同じ場所にいた。
和泉橋のたもと―、昨日の
昼下がりに源治に出逢ったと
ころである。源治に泣き顔を
見られてしまったことは、お民の心に自分でも予想以上の衝撃を与えている。
思えば、源治とお民は不思議な関係であった。もちろん、同じ徳平店に住む店子同士、相店のよしみと言ってしまえば所詮はそれだけのことにすぎないだろう。源治が徳平店に引っ越してきたのは、今から七年前になる。当時、まだ十八の若者で、存外に整った面立ちにはまだ少年期の名残が強く残っていた。
女にしては身の丈があるお民は、亭主の兵助と並べば、ゆうに頭一つ分以上は高い。二人で並ぶと、よく虎と鼠だといわれた。なのに、源治は並外れて長身で、大概の男と並んでも負けないお民よりも更に上背があった。そんな源治であってみれば、お民と並んでも、当然、源治の方がお民を見下ろす格好になる。
今時にしては珍しく無口で大人しい若者で、真面目だった。何を考えているか判らないところはあったものの、陰陽なたなくきちんと働き、酒も呑まない。むろん賭場に出入りすることなぞ一切ないし、この歳の男にしては稀有なことに、色宿に女を買いにゆくこともなかった。
源治の顔を見れば、まるで母親のようにあれこれと要らぬお節介を焼き、挙げ句には鹿爪らしい顔で小言ばかり垂れてきた。あのとおりの大人しい男だから、表立ってお民に逆らいもせず、いつも笑って聞き流していたけれど、心の内ではさぞや煩わしい女だと辟易していたに違いない。母親でも姉でもないのに、いつもしたり顔でお説教ばかりするお民は、さぞ鬱陶しい存在だったろう。
今まで源治の心中を考えもせず、言いたい放題にふるまってきたけれど、今日の体たらく―いや、兵助が亡くなってからの自分のふるまいを思い起こせば、穴があれば入りたいほどの羞恥心に襲われる。口では偉そうなことをさんざん言っておきながら、その実、一人では何もできない意気地なし、口先だけの女。
もとより源治に疎まれていることは判っている我が身ゆえ、これで愛想を尽かされ徹底的に嫌われてしまったとしても致し方のないと諦めるしかないのではあるけれど。
源治にそこまで嫌われてしまったと考えただけで、心の内を薄ら寒い風が吹き抜けてゆくような気がするのは何故なのか。
お民は自分で自分の心の在りようが判らない。梅雨時のせいか、今日は昼間もさほど気温が上がらず、夜になって風はいっそう冷たくなった。
殊に川を渡る夜風はひんやりとしている。今は葉桜となった垂れ桜の下群れ咲く紫陽花は、いまだ淡い蒼色をとどめたままだ。
紫陽花は人の心。
ひと雨毎にうつろい、深まってゆく色は、もしかしたら人を想う心、恋心に似てはいないだろうか。
物想いに耽りながら、お民は夜陰にひっそりと浮かび上がった蒼い花を見つめていた。
その同じ頃、源治は徳平店のお民の家を覗いていた。だが、部屋内にお民の姿は見当たらず、源治はひと度は自分の家に戻ったものの、何故かじっとしていられず再び外に出たのである。
長屋の前の路地裏を歩きながら、源治は懐手をして空を仰いだ。
菫色の夜空に、頼りなげな細い月が浮かんでいる。今夜は雲も多く、からりと晴れ渡った月夜には程遠かったが、月明かりで歩るまに不自由はしなかった。雲に今にも閉ざされるように浮かんでいる月は、まるで辛うじて夜空に引っかかっているようにも見える。
それにしても、お民は一体、どこに行ったのだろう。こんな夜分に、女が一人で外をうろついていたら、それこそ物騒だろうに。
お民は自分が女としての魅力がないと思い込んでいるけれど、源治から見れば、それは大きな見当違いというものだった。確かに世間で言う美人ではないが、あの歳頃特有の滲み出るような色香はちゃんとある。それに、何より兵助がかつて笑顔が良いと言ったように、お民の晴れやかな笑顔は人の心を癒やし、和ませる。
惚れた弱みなのかもしれないが、源治は、お民の小言や説教さえ聞くのは厭ではなかった。
あの時―、昨日、和泉橋のたもとで偶然見かけた時、お民は泣いていた。
兵助が倒れて以来、お民の泣き顔は何度か眼にしている。正直、お民のような気丈な女でも泣くのかと 最初は愕いた。
だが、意識のない兵助の看病を懸命に続けていた姿、寒い夜、冷たい井戸水を立て続けに頭から被っていた姿、野辺送りの日の悄然と肩を落とした姿―、頼りとする亭主が倒れてからのお民を見るにつけ、お民もやはり一人の女なのだなと考えを改めずにはいられなかった。
昨日、何度めのお民の泣き顔を見てからというもの、源治の瞼に、あの泣き顔がちらついて離れない。昨日のお民の涙は、とりわけ源治の心を深く抉り、更に強烈に捉えた。
―亭主を亡くした、何の取り柄もないあたしには、身体を売ることくらいしか何もできることがないんだってさ。
お民が泣きながら言った科白が源治の耳奥でありありと甦る。
―あたしは、そんなのはいや。そんなことをするくらいなら、死んだ方がマシだよ。
お民は今でも亡くした亭主に惚れている。それに、兵助への想いは別としても、お民のような気性の女であれば、自分の身体を売ってまで生きようとはけしてしないだろう。
だが、兵助が倒れてから何度も感じたように、お民だって所詮はか弱い女なのだ。
作品名:橋ものがたり〔第2話〕~恋心~ ・弐 作家名:東 めぐみ