橋ものがたり〔第2話〕~恋心~ ・弐
不思議なもので、お民は自分が予想していた以上に、新しい生活―兵助のおらぬ一人だけの生活に順応していった。
むろん、ふいに淋しさが込み上げてきて、一人で蹲って泣くときだってあった。それでも、毎日泣いていたのが二日に一度になり、やがて三日に一度、更に十日に一度というようになり、気が付いたときには、涙を流すことも滅多となくなっていた。
亭主や倅を失っても、現金なもので腹は空くし、飯を食べねば生きてはゆけない。生きてゆくためには、働かねばならないしで、お民は口入れ屋に行って、仕事を紹介して貰った。美空のように仕立物ができれば良いのだけれど、生憎と、お民は不器用で針仕事なんてできない。何か自分にもできるものがあればと探して貰った結果、紙の花を作る仕事を紹介されたのだ。
これは紙で季節の折々の花を作る、つまり造花を作る仕事だ。不器用なお民には最初は難しかったが、何度も同じ作業を繰り返している中に、次第に上手くできるようになった。それでも、一日中頑張ってみても、作れる花の数は知れている。たいした稼ぎにはなりそうにもなかったけれど、兵助が残してくれた金がかなりまとまってあったゆえ、そうやって内職をしながら慎ましく女一人で暮らしてゆけば、暮らしに困ることはなさそうで、とりあえず生活の目途だけついた。
その日は、五日に一度、出来上がった花をまとめて口入れ屋に持ってゆく日だった。お民は紫や蒼、赤といった色とりどりの紫陽花を抱えて、町人町の口入れ屋まで出かけた。
その朝、江戸にはいかにも梅雨空らしい鈍色の空がひろがっていた。が、お民の心は至って明るく弾んでいた。
家を出たときは意気揚々と出かけたお民だったが、四半刻後、帰り道は出かけたとき晴れやかな気分が嘘のように、暗く沈んだ心持ちになっていた。
―女一人の暮らしでは、大変でしょう? 実はあんたが来たら、是非紹介しようと思っていた奉公先があるんですよ。
口入れ屋の四十絡みの主人がそう言って、お民に告げたのは、お民が考えてもいなかったような仕事だった。
和泉橋町―つまり、和泉橋の上手にひろがる武家屋敷町の一角に、さる旗本の屋敷がある。当主は直参旗本で五百石を賜る石澤嘉門、歳は三十六だという。その石澤嘉門が妾を探しているとのことで、誰か適当な女がおらぬかと口入れ屋に訊ねてきたとのことであった。
―あんたは歳の頃も丁度、石澤の旦那さまと釣り合うし、おまけに聞けば、子どもを一人産んでいるというから、うってつけだと思ってねえ。
石澤嘉門は、数年前に妻女に先立たれ、ずっと独り身だった。今更後添えを娶るのも煩わく、ならば、てっとり早く妾を置こうという気になったらしい。さして美人でなくても、健康で気立ての良い女で、更に第一条件として、すみやかに子の産める女が良いとのことであった。
―石澤さまにはいまだにお子がおられず、このままではお家が絶えてしまうと、一日も早いお世継ぎのご誕生を待ち侘びていらっしゃるんだよ。まぁ、正式なご内室というわけにはゆかないが、仮にもお世継ぎの若さまのご生母ともなれば、それなりの待遇もして頂けるだろうし、あんたにとっても悪い話じゃないと思うがねえ?
こんな良い話を紹介してやったのだから、ありがたく思えと言わんばかりの態度だった。
お民は、その話を丁重に辞退した。本当は
―人を馬鹿にするんじゃないよッ。
と、口入れ屋に怒鳴ってやりたかったのだが、これから仕事を紹介して貰うからには、そんなことはできない。
帰り道は、悔しくて悔しくて、ともすれば涙が溢れそうになった。
確かに、お民は亭主を失った寡婦だ。それも、たいした取り柄もなく、器量だってさほどではない。でも、お民にだって、それなりの誇りというものはある。幾ら取るに足りない身だとて、顔も見たことのない男の妾になって、慰み者にされるなんて、真っ平ご免だ。
―人が折角良い話を紹介してあげたのに、何とも我が儘というか、考えなしなことだ。良いかい、あんたのような何の取り柄もない女が一人で生きてゆくからには、身体を張るくらいのことは覚悟しないと駄目なんだよ。はっきり言わせて貰いますが、あんたが今、使えるものといったら、女を武器にする―つまり、その身体くらいしかないでしょう? 今はまだ女を売り物にできるけれど、もう二、三年もすれば、それもできなくなっちまうよ。今の中に良い話があれば、それに乗っかった方が利口というものだろうに。
帰り際、口入れ屋の主人は憐れむような、蔑むようなまなざしでお民にそう言い放った。何故だか、そのまま徳平店に帰る気にもなれず、お民は一人、町人町の外れまで歩いていった。
和泉橋のほとりに佇み、ゆっくりと流れる川を見つめる。
川のほとりには、垂れ桜が一本、ひっそりと植わっている。水無月の今は花はなく、眩しい緑の葉が眼にも鮮やかだ。葉桜となった樹の下に、紫陽花が数本群れ固まって咲いている。淡い蒼色はまだそれほど色づいてはいなかったが、灰色に塗り込められた風景の中では、そこだけが際立って見えた。
この川は見かけは底も浅く、流れも緩やかに見えるが、実は急に深くなったところも多く、流れも速い。
この川が兵太の生命を奪った。
じいっと川面を覗き込んでいたら、そこに愛盛りの我が子の面影が浮かんできそうだ。
―兵太、おっかちゃんはもう疲れちまったよ。
別に川に身を投げようなぞと考えわけではない。
だが、このときのお民が口入れ屋の放った数々の言葉に、深く傷ついていたことも確かであった。
暗澹とした想いで川面を見つめていると、我知らず涙が滲んできた。
―お前さん。どうして、あたしを置いて逝っちまったんだよ?
兵助の、兵太のおらぬこの世は、あまりにも淋しい。淋しすぎる。
「おい、お民さんじゃねえか?」
突如として声をかけられ、お民は慌てて顔を上げた。
見慣れた顔―源治が橋の上からお民を見つめていた。
視線と視線が絡む。
お民の眼に浮かぶ涙を見て、源治はハッと胸を衝かれたようだった。
「―」
お民は慌てて視線を逸らした。
「一体、どうしたっていうんだ?」
源治が気遣わしげに訊ねる。
野辺送りが済んでからも、源治はちょくちょく訪ねてきては、何か困ったことはないかと親切に訊いてくれた。
寿司を買ってきたからと届けてくれたり、これでは立場が逆だねと、お民が冗談交じりに言ったことがある。
お民は力なく首を振ると、その場から駆け出した。だが、源治とお民の脚では所詮、調べ物にならない。大人と子どもが競争しているようなものだ。
「おい、待てよ」
ほどなく追いつかれ、手首を掴まれる。
お民が返事をしないで顔を背けていると、手首を掴む手に力がこもった。
「―痛い、源さん。痛いよ」
お民が訴えても、源治は一向に力を緩めようとも手を放そうともしない。
「何があった?」
源治の声が低くなっている。心底、心配してくれているのは判った。
「何だって良いでしょ。源さんには関係のないことよ」
お民が突き放した口調で言うと、源治が叫んだ。
「関係ないなんて、いつ俺が言った? お前が一人で勝手にそう決めてるだけだろう」
お民の眼に溢れた涙がつうっと頬をころがり落ちた。
作品名:橋ものがたり〔第2話〕~恋心~ ・弐 作家名:東 めぐみ